仙台フィルハーモニー管弦楽団(7)

2007.07.14| 仙台フィルハーモニー管弦楽団

フルートの山元康生です。仙台フィルに入団して25年になります。気候もよく、食べ物もおいしく仙台が好きです。

「せんくら」は、お客さんのことを配慮したいい企画だと思います。45分だと、ちょうど集中して聴いていただける時間でしょう。ただ、フルコースではないので、もし、物足りないと感じられたら、フルコースが堪能できる、定期演奏会に足を運んでいただけたらと思います。

今回、吉松隆さんの曲が取り上げられますね。吉松さんは、50台半ばの、今最も活躍している作曲家です。時代からいえば現代音楽の人です。しかし、作風は難解な、現代音楽ではありません。メロディが重視され、聴いて美しい作品が多く、幅広い人に好まれています。作曲家によるお話もあります。名曲がちりばめられている「コンガラガリアン狂詩曲」という題名の曲もありますよ。演奏する私も、どのような曲なのか、いまからワクワクしています。きっと楽しい音楽入門コンサートになると思いますよ。是非お出かけ下さい。

村上満志(6)恥ずかしながらの「昔話6」

2007.07.13| 村上満志

ベルリンでの留学生活は、月額750D.M(ドイツ・マルク)のドイツ政府からの奨学金のみで賄われていた。その額でオペラも聴けたし、ベルリンフィルの本拠地フィルハーモニー・ザールのポディウムと言う指揮者の正面の席のチケットも買えた。そして時々は先生にも、もぐり込ませて頂いた。

そんなベルリンでの生活で、冬の到来と共に必要不可欠なのが「コート」。ある日仲間とベルリンのスーパーマーケット(確かBilka ビルカ?と言ったと思う)へコートを買いに行った。

時代と国は違うが、1階食品、2階が衣類売場のヨークマート?もしくは西友?と言った感じである。2階の角の方に、ずらりと並んだコート、多くはイミテーション皮の150~200D.Mの物だった。しかし、人目を憚るように外れの方に暖かそうなラム(子羊)の内側に起毛した、その上柄が灰色と白のまだら模様、一目でものほん(本物)と分るコートが上等そうなハンガーに鍵つきで掛かっていた。値段は750D.M。1ヶ月分の奨学金と同額!!仲間と一緒に、ひやかし気分で店員に鍵を開けて呉れるように頼むと、「買いもしないのに、東洋の貧乏学生が!」と、口では言わなかったが、顔に書いてあった。店員が渋々鍵をはずしたコートに手を通すと、恥ずかしながら、初めて感じる感触。「暖ったか、温ったか、こんなコート有ったか?」さげすんだ顔を見返してやりたくもあったが、殆どはずみ(・・・)で「お買上げ」してしまった。

店を出て、買ったコートの暖かさ以上に、寒くなった懐具合に身震いした記憶は、今も残っている。

灰色と白のまだら模様がかもしだす雰囲気から、そのコートはそれからしばらく「象アザラシ」の異名を欲しいまゝにした。

仙台フィルハーモニー管弦楽団(6)

2007.07.13| 仙台フィルハーモニー管弦楽団

仙台フィルコントラバス奏者の市原聡です。早いもので、仙台フィルに入団してから20年となりました。

皆さん、コントラバスの弓の持ち方に、ドイツ式とフランス式の二通りあるのをご存知ですか。私は、日本ではまだ、あまり普及していない、フランス式の持ち方をしています。この持ち方をしているのは、仙台フィルでは私だけです。体の小さい日本人には、楽な姿勢で演奏できるフランス式の持ち方が向いていると、私は思っています。

私は、小・中学校のときに音楽に囲まれて育ちました。教室の机が足踏オルガンだったのです。教壇の近くにはピアノもあり、自由に弾くことができました。レコード鑑賞の曲を選んで、その作曲家について調べ発表する授業もありました。

将来は音楽評論家あるいは音楽学の道に進みたいと高校生のときに思ったのですが、音楽大学を目指してピアノを習っていた先生が、何か楽器が弾けると楽しいよといわれ、いいコントラバスの先生がいるからとりあえず会ってみたらと紹介されました。私は正直に一度だけとおもって会いに行ったら、有無も言わさず次のレッスン日が決められました。そうこうしているうちにコントラバスが好きになりました。

さて、「せんくら」ですが、音楽の好きな人を増やすという面では、いい企画だと思います。しかし、私は全てが45分のコンサートだけでなく、中には、きちんとしたコンサートがあってもいいのではと思います。45分のコンサートだと演奏できる曲が限られますよね。それから、演奏会になれた人には、曲が終わった後、ホールを包む一瞬の静寂、それも音楽の一部だと思って聴いていただきたいとおもいます。

私は、ベートーヴェンやブラームスなど頭文字が「B」の作曲家の音楽が大好きです。今年の「せんくら」の最後の演奏会では、ベートーヴェンの交響曲第九番の第4楽章が演奏されます。始まるとすぐにコントラバスが活躍しますので、ご期待下さい。

 

村上満志(5)恥ずかしながらの「昔話5」

2007.07.12| 村上満志

芸大4年の秋。ドイツ政府の給費留学制度の試験を受けた。恥ずかしながら、1ドル360円の時代である。すでに都響に入団していたが、月給8万円、親の支援を望めない貧乏学生には渡航費用30万円さえ、逆立ちしても出せない。留学試験が憧れの師ツェパリッツ先生に会える唯一の道だった。それだけに、その試験に合格出来たことは、この上ない喜びだった。

翌年6月、友人の見送りを受けて出発した空港は、恥ずかしながら「羽田」だった。もっと言うなら、途中アンカレッジで「うどん」を食べてのドイツ入りだった。(当時ヨーロッパへ行く時、東西冷戦下で北極を経由していた。)ハンブルク空港の芝生の緑が目に鮮やかだった。期待と不安が入り交じる、と言うよりも初めて見る外国の景色に、青年村上の小さな胸は押し潰されそうだった。取り敢えず行く街はハンブルク近郊のリュネブルクで、まずは空港からタクシーで駅へ。タクシーを降りて駅舎を見上げたら、なっ何と、日本で愛用していた「NIVEA(ニベア)」の超どでかいブルーの看板が目に入った。その看板を見たとたん、何故か気持ちが落ち着いてきた。「NIVEA」が効くのは肌荒れだけではなく精神安定剤としても有効だったのである。

リュネブルクの「ゲーテ学院」で言葉の勉強をさせてもらったが、色々な国から「志」を持った青年が集まり、片言のドイツ語で語り合いながらお互いに励まし、勇気づけ合うという貴重な体験から留学生活が始まった。

仙台フィルハーモニー管弦楽団(5)

2007.07.12| 仙台フィルハーモニー管弦楽団

今日は、ティンパニの竹内将也が担当します。私は舞台の一番後ろにいます。ちょっと客席から遠いのですが、立って演奏していますのでわかりやすいかもしれません。

仙台に移って5年になろうとしています。仙台は町の大きさが生活するのにちょうどいいし、他の地域から移ってきた人に親切で、とても住みやすく仙台が気に入っています。妻も同じく仙台フィルでヴァイオリンを弾いていますが、生まれは静岡です。仙台には私より長く住んでいます。

「せんくら」は、気軽に音楽が聴けてとてもいい企画だと思います。今回、仙台フィルが演奏する曲目では、ベートーヴェンの「第九」で、ティンパニはとても重要な役割を担っています。それから同じくベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第3楽章の終わり近くで、独奏ピアノとティンパニとのデュエットの部分があります。この部分は、私は指揮者とではなく、ピアニストと直接アンサンブルすることに心がけています。第3楽章のすべてを貫く基本のリズム(ノリ)があり、それを受け継ぐかたちで最後にティンパニが残って独奏者と音楽を織りなすのです。

実は協奏曲で独奏者とティンパニのデュエットのある曲が、結構あります。作曲家はしばしばティンパニをオーケストラにおけるその象徴的な存在として、独奏と対峙させるようです。また、グリーグのピアノ協奏曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、ティンパニの独奏で始まります。是非聴いてみてください。

子どものころ、父がレコードが好きで、家では音楽がよく流れていました。その父の勤めていた会社が楽器を作るようになり、音楽教室を開設しました。そこに兄とともに通わされたのですが、次第に面白くなり音楽が好きになりました。その兄も現在テレビ局で音響の仕事をしています。

中学生になって、部活で吹奏楽部を選びました。トロンボーンあたりをやろうかなと思っていたのですが、先輩がドラムセットを演奏していたのを見て「かっこいい!」と、瞬時に打楽器に心変わりしました。私が入った年に新しくティンパニが来たのですが、ほどなくしてドラムセットよりティンパニを好むようになってしまいました。高校にはオーケストラがありました。オーケストラの打楽器といえば、もうティンパニ中心ですし、音楽大学へ進むときも、ティンパニで受験する制度が出来た第1号生として入学しました。なんだか、自分の人生はティンパニに導かれているような気がしてなりませんし、それほどティンパニが大好きです。

作曲家が自身の新しい響きを求めるとき、打楽器にその可能性を託しているところが非常に大きい気がします。打楽器を効果的に、ノリ良く使わせる作曲家は優れた作曲家といえるでしょう。ですから打楽器奏者にも豊かなイメージと自由な発想、そして何より自然体であることが求められていると思っています。

村上満志(4)恥ずかしながらの「昔話4」

2007.07.11| 村上満志

春は野に舞う蝶と戯れ、夏は声楽科の学生達と競うような牛蛙の合唱に心和ませ、秋には宍道湖に沈む夕陽にもの想い、そして冬には深々と降り積る雪を窓ごしに眺めながら、ウラッハ(ウィーンのCla奏者)の奏でる「ブラームス」を心に刻み鬱々とした青春を感じていた。そのようにして田舎の大学で何の疑いもなく、何らかの結果を求められる事もなく生活していた。

恥ずかしながら、まるで4年間がそのまま額縁に収まりそうな、文字通り青春だった。

多くの仲間は特別教科(音楽)教員養成課程のその名のとおり、教員採用試験を受け、社会へと羽撃いて行った。私もそうなることに左程の違和感は感じていなかったが、「過ごしてきた4年間を自分なりに検証したい」とも思ったし、「もう少し楽器を弾いていたい」とも思った。その結果、国立の音楽大学、つまり芸大受験という事になった。2回目の大学受験だったので親にも言えず、すでにサラリーマンをしていた兄に無心し、自らも手持ちのオーディオ機器を後輩に買ってもらうなどして、受験資金を捻出した。

しかしお金の工面よりも、勉強などの受験準備の方が大変だった。4年間は、全てを忘れる為にあったので、現役受験生同様一から覚え直しである。その上卒業の為の単位も沢山落としていたので、それを拾い集めるのもまた大変。

演奏技術の面でも、ただひたすら何の基準も持たず自己満足的練習を繰り返していたので、「自分がどんなレベルに居るのか?」という不安も大きかった。

結果的に合格したが、第三次の最終発表を見たとき、周囲で飛び上がって喜ぶ現役の受験生のようには喜べない自分が居た。合格した喜びよりも、もうこの道から逃れられないという気持ちの方が大きかった。

もし受験に失敗していれば、1年間の就職浪人を経て、それなりに熱血先生になっていたと思う。

恥ずかしながら思う。

人が生きる時、取り敢えず頑張らなければと思うが、結果は多分に「はずみ」とか「成行き」に翻弄されるようにも!!

仙台フィルハーモニー管弦楽団(4)

2007.07.11| 仙台フィルハーモニー管弦楽団

ファゴットの水野一英です。実は「せんくら」に出るのは今年が初めてです。といっても新人ではありません。仙台フィルの本拠地である青年文化センターが出来た年、つまり1990年に入団しましたので、今年で18年目です。

「せんくら」は、1回の演奏会の長さが45分ですので、小さい人でも集中できるのではと思います。それにチケット料金が、1000円というのもいいですね。

私の父は、中学校の音楽の先生でした。ですから、小さいときから自然に音楽に親しんでいました。新潟県の三条という町で大きくなったのですが、確か、小学校の4年か5年生のとき、新潟までNHK交響楽団の演奏会を聴きに行ったことを覚えています。

音楽をずっとやって生きたいというのが私の第一の目標であって、それを実現させるためのファゴットを選んだというのが、正直なところです。音楽大学を目指して、三条から東京まで月に2回レッスンに通いました。当時はまだ新幹線がありませんでしたので、特急を利用しても片道3時間40分かかりました。それでもくじけることなく、音楽の勉強に励みました。それほど音楽がすきなのです。

さて、今年の「せんくら」ですが、以前よく共演していたピアニストの仲道郁代さんと久しぶりに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」をいっしょに演奏できるのが楽しみです。この曲の第2楽章の最後に、フルートとクラリネットそれにファゴットが、ピアノの伴奏でメロディを奏でます。是非、聴いてください。そのほか、ベートーヴェンの第九の歓喜のメロディの対旋律をファゴットが吹いています。

村上満志(3)恥ずかしながらの「昔話3」

2007.07.10| 村上満志

当時の教育学部に科せられた教育実習の期間は、自分のいた課程だけがそうだったのか?6週間もあった。中学校2週間、高校2週間、また中学に戻って2週間、4年生になって早い時期にあった。

恥ずかしながら、夜の生活(花のキャバレーでのバンド生活)も続けていた。朝6時過ぎに起床、8時には学校に居なければならない。流石に体力、精神力とも限界を超え2、3日休んでしまった。それでもなんとか迎えた最終週、くじ運悪く「研究授業」なるものを引き当ててしまった。要するに他の実習生の晒し者になって授業をするのである。授業のあとの反省会で枝葉末節をとらえて、「そこがこうだ、ここがあゝだ」と言う他の実習生の戯言を聞かされた。「そんなくだらない事を気にしながら、君らは授業をしているのか?」と言う気持ちをぐっとこらえ、ご説ごもっともと言う顔で聞いていた。

実習生活の最後の方でクラス担任から頼まれ「道徳」の授業もやった。恥ずかしながら、「男女の敬愛について」である。

1時間滔々としゃべりまくった。曰く「君達の本分は学業にある。しかれども男子が女子を想い、女子が男子を想う心を育むことは劣らず大切な事である。夏の太陽に咲き誇るヒマワリのように、山の岩陰にひっそりと咲く名も知れない花のように。それぞれにその気持ちを大切にすべし・・・・・」

授業の後、所謂ラブレターが何通かクラスで飛びかったと聞いた。してやったり。

時を経て、卒業間近に大学の弦楽合奏定期でソロをさせて頂いた。音楽の授業のおかげか、道徳の授業のおかげか?受け持ったクラスの殆どの学生が半年以上の時間を越えて演奏会に来て呉れた。

研究授業であげ足を取った実習生の君達、「大切なことは、そんな所にはないんだよ!!」

仙台フィルハーモニー管弦楽団(3)

2007.07.10| 仙台フィルハーモニー管弦楽団

今日は、ヴァイオリンの松山古流が担当します。

「せんくら」はクラシック音楽に広く浅く親しめ、いい企画だと思います。
この機会に、クラシック音楽ファンが増えて、仙台フィルの聴衆が多くなればなあと願っています。私は、指揮者やオーケストラの楽員と聴衆の方々とが、触れ合える機会があればなと思っており、自分では積極的に演奏会のあとで、聴衆に語りかえるように心がけています。

私とヴァイオリンの出会いは、小学校1年生のときでした。母がヴァイオリンを弾いていて、子供にも習わせたかったようです。私は、福島県喜多方で育ったのですが、そこの音楽教室でヴァイオリンを教えており、そこに通うようになりました。初めのころの私の興味は、ヴァイオリンよりも教室にたくさんあった漫画本だったのですが、そのうちヴァイオリンにも熱中するようになりました。音楽大学を出て、2年ほど郷里でヴァイオリンの先生をしていましたが、オーケストラで演奏したくて、仙台フィルに入りすでに24年過ぎました。

今回の「せんくら」には、山形交響楽団も参加し、仙台ジュニアオーケストラも含めると7回、オーケストラの演奏会が組まれています。

私は、7日の夕方山響が演奏する、モーツァルトが好きです。モーツァルトは聴いても弾いても心地よい曲をたくさん作曲しています。モーツァルトの曲は、何度聴いてもあるいは何度弾いても飽きることがありません。どこまでも奥の深い曲で、年を重ねることに、感じ方が変わる不思議な曲です。是非皆さんもこの機会に、モーツァルトに親しくなっていただければなと思います。

私はたくさんの趣味を持っていますが、そのひとつにヴァイオリンとヴィオラの蒐集があります。おもに古い時代の楽器を集めています。メンテナンスは大変ですが、実にいい音色を響かせます。楽器と弓を取り替えると、全く違う世界の音がします。ですから、蒐集した楽器のうち、10本くらい常時演奏できるように調整しておき、演奏する曲によって、楽器を取り替えることもあります。

皆さん、ジャズやポピュラー音楽を鑑賞するときに、ノリがいいとか、体に感じるとか、そういう表現をされますよね。クラシック音楽もそうなのです。是非、コンサートホールで生の演奏を体全体で受け止めてください。

皆さんのおいでを、こころよりお待ち申し上げております。

村上満志(2)恥ずかしながらの「昔話2」

2007.07.09| 村上満志

その昔、東北、北陸、中国、四国、九州などの各地方に一大学、教育学部に特音課程と言うものが設けられた。私の卒業した1つ目の大学、島根大学は中国地方のそれだった。

恥ずかしながら1967年入学で、もう40年も前のことになる。

1学年の定員は30名で、だいたいどの学年も男子10名、女子20名という構成だった。学業成績の芳しくない生徒の集まる私立の男子校(女性は売店と事務のオバサンのみ)で嫌々ながらの3年間を過ごした我が身には、大学での生活そのものが革命的な変化だった。稚拙で訳の分からない練習を繰り返していたと思うが、結果を求められる事もなく楽器にぶらさがっているだけで、多少なりとも「自」を見出せる喜びを感じていた。そしてその上、多くの女性が同じ空間で同棲?する環境でそう出来ることは、恥ずかしながら振り返れば、これまで過ごし来た時間の中でもかなり「パラダイス」に近いものだったのかもしれない。

そんな学生生活の3年になる前の春休みだったと思う。その街に唯一ある「花のキャバレー」(その当時の文化施設?で、若かったり、若くなかったりする女性がアルコール飲料を持って待ちかまえ、クライアントを接待する大人の社交場)でピアノを弾く先輩から、一緒にそのキャバレーでバンドをやってくれないかとのお誘いを受けた。その先輩は一言で言えば、はなはだ潔く生きてこられた人で、今でも親交を結んで頂いている。

多少の躊躇はあったが、「ここで稼いで東京へ行ってコンバスのレッスンを受ける為」と割り切って、学生とバンドの二重生活が始まった。

そんなある日、声楽科の後輩が、どこかに捨ててあった自転車を自分で修理して、私に「どうですか?」と言ってきた。うかつにも購入してしまった。500円で!

2・3日後、花のキャバレーで仕事を終え、閉店まぎわの「おでん屋」でちょいと一杯、飲めないアルコールを飲み自転車のペダルを踏んで帰路につく。橋にさしかかった。どんな橋でもなだらかながら多少登り下りの坂になっている。登り始めて4回、5回と踏み込むペダルにかかる負荷が増してくる。何度目か息を止めて「えいっ」とばかりに右足を踏み込むと同時にポロッ、カラカラ?!ペダルが自転車から勢いよく地面へ。横転はまぬがれたが、坂を押して登り、そこから先は、恥ずかしながら、ネクタイを締めた小意気なバンドマンが左足1つペダルの自転車で夜の街へ消えていった。

 

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