イギリス音楽に心を潜め、多くの音源に耳を傾けてみると、そこに一つのイギリスらしい特色を見ることができます。それは何かというと、純粋な響きへの志向、ということではないかと思います。
日本の合唱が学校音楽を出発点とするのに対して、イギリスのそれは教会のクワイア(聖歌隊)を出発点とすることが、もっとも大きな違いかもしれません。
学校音楽では、純粋で精密なハーモニーの響きというようなことは、あまり意識されていないように思います。そもそも学校の教室では音が響かないので、純粋な響きを感じようがないのです。外からは野球部の叫び声やら、ちり紙交換の音やらが交錯して乱入し、純粋なハーモニーどころではないというのが、遺憾ながら学校という空間の現実です。
ところが教会、たとえば、ケンブリッジ大学の各コレッジにあるチャペルなど、教会建築というものは、天井がたかく、壁という壁が石と硝子でできています。
そういうところでは、外の音はほぼ完全に遮断され(防音性というのは壁素材の質量に比例するというのは建築学上の常識です。石造りの建物がその意味で圧倒的に有利であることは現実が証明しております)しかも内部空間では、音は天井高くまで響き、返ってきて、陶然とするようなハーモニーをかたちづくってくれます。この音の挙動が、純粋なハーモニーへと人を導いてくれるのです。
そもそもこの環境が彼我の違いを生む基となっています。この空間に助けられて、彼らは、ほんとうに見事な、精密機械のようなハーモニーを聞かせてくれます。私がいつも羨ましいのはここです。そうして、教会音楽としてのクワイアからは、無数の音楽家が生まれています。
学校音楽としての合唱は、それなりに見事なハーモニーを聞かせてはくれるのですが、そこから多くの歌い手や重唱団や作曲家や演奏家などが育ってくるわけではありません。あくまでもその学校の中に留まっているということころが、哀しいかな、現実であります。
私は、イギリスに行くたびに、CDを探し、多くの楽譜を買い集めてきます。もっとも気に入りの場所は、ケンブリッジの真ん中にあるブライアン・ジョーダンという楽譜舗で、ここには、無数の中古楽譜が、まるでただのような値段で売られています。その楽譜の山を、日がなひっくり返してあれこれと探していると、思いがけず珍しいものを発掘したり、かねてから捜しあぐねていた曲のオリジナルなどに遭遇したりして、その楽しさはまた比類がありません。
そんな風にして、毎年ケンブリッジに行っては、夥しく楽譜を買って戻ってくるのが例になっていますが、その殆どは声楽曲、さらにその多くは重唱譜です。クワイアの天国イギリスには、あらゆる曲の重唱譜がそろっているといっても過言ではありません。それらの楽譜は、重唱林組のレパートリーとして舞台に掛けたりもしましたが、なおやってみたい曲はまだ無尽蔵に残っています。
林望(トーク&バリトン)