
2001年の5月、第1回の仙台国際音楽コンクールコンテスタントのウエルカムパーティーに、ボランティアとして参加させてもらいました。偶然にも中国から参加の女性2名と男性1名、そして付き添いの母親と指導者5名のテーブルに付くことになりました。中国語は「ニーハオ」と「シェーシェー」しか知らない私は、どきどきしながら通訳者に助けてもらってお料理の説明をしたり、体調は如何かなどと会話を進めて、本番に向けての激励をと必死でした。
女性陣は、にぎやかにおしゃべりをしながら飲んだり食べたりで、外見は楽しそうに見えました。只一人の男性は静かに話もせず、かすかな笑顔でたばこを吸っていました。なかなかきっかけがつかめず、どうしたものかと食事を勧めてみたものの、お刺身をつついてうなずきながら一口、二口。そこで「お名前を教えて下さい」と尋ねてみました。すると箸袋に「黄蒙拉」と楷書でていねいに書いてくれました。とても読めないので「発音も教えて下さい」というと「Fan・Monra」とローマ字ルビをふってくれました。これが最初の出会いでした。もの静かで少年ぽささえ残るあまり主張のない青年に思えたものです。
そこへホストファミリーを予定しているNさん一家が「熱烈歓迎」と大書した紙を持って大声で挨拶、握手に来られました。彼がたばこを吸っているのを見て「おお、私と同じたばこだ」といって“hi-lite” を出され「交換しよう」と言ったら、「これは日本のものです」と言いながら、それでも交換していました。その場もなごんで、私もつい、「あまりたばこは吸わない方がいいですよ」などと老婆心を発揮してしまいました。彼はニコッとしながら「私もそう思っています」と答えてくれました。それにしても最近、たばこの本数はどのくらいになったかな?と思いを馳せています。
本番に臨んだ彼の演奏ぶりは皆さんの心に焼き付いていることでしょう、私の稚拙な表現では不可能です。結果はご存じのようにスヴェトゥリン・ルセヴとの同位で第一位でした。あのシベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調(作品47)の入賞者記念アルバムはその後の私の愛聴版として今もバックに聴きながらこれを書いています。
もの静かな風貌からは想像も出来ないほど、情熱的でありながら洗練された演奏はこれからも世界中の観客を魅了し続けていくことでしょう。
〜上海で再会〜
2003年12月5日、6日の上海オーディションに何かお手伝いできないかと出かけました。ホァン・モンラさんの出身校が会場でした。オーディションも無事終了し、ホッとした所へ彼から連絡が入り、事務局のMさんと二人、待ち合わせ場所へ向かいました。上海の12月は晴れてはいても極寒でした。仙台人の二人は分厚いコートでいそいそと、いくらか緊張気味で急ぎました。そこは地元の人が集うレストラン。ホァン・モンラさんは白のコートとセーターで颯爽と、そしてとても清楚で細身の愛らしいガールフレンドといっしょに待っていてくれました。すぐに片言の英語で再会を喜び、その後の入賞者コンサートでの来仙の思い出など、話ははずみました。私が感じていた印象とは少し違い、とても力強くリーダーシップを発揮して、メニューの一つひとつの説明をして、日本では食べられないものをと気を遣って選んでくれました。美味しい魚料理、野菜料理(料理名を覚えられなくてごめんなさい!)と老酒、進む程にジョークも飛び交い、彼女とも仲良く話がはずみました。
彼女には同じくコンクール参加を勧めましたが、今は上海オーケストラの一員としてとても忙しく活躍しているので無理とのことでした。ちょっと席を立った彼女が、可愛い缶入りの中国茶をお土産にと手にして戻ってきました。そのさりげなさがとても嬉しく残りました。
食後は、私のわがままなリクエストを優先してくれて、Jazzの大きなライブハウスに連れていってもらいました。彼もJazzは大好きとのこと、でもちょっと無理してくれたのかもしれないと思ったりしたのですが、演奏者が次々と彼に寄ってきて挨拶、話あっているではありませんか。みな上海音楽学院の卒業生だったのです。プロになっている人、アルバイトでやっている人、ホァン・モンラさんとその友達へと特別演奏をプレゼントしてくれました。その中でもガーシュインの「パリのアメリカ人」は私のリクエストに応えてということで永遠に残る音色となりました。
上海の夜はまたたく間にふけて、日本での再会を約束し健康で演奏活動を続けられますように、と祈ってお別れしました。
仙台国際音楽コンクールボランティア 三田雅子
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