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SENCLA BLOG

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中川賢一
2007.07.07

中川賢一(7)

最後に仙台クラシックフェスティバルの初日に共演させていただくスヴェトリン・ルセヴさんのついてお話をさせていただきたいと思います。

私が共演させていただいた中で、彼は間違いなく最高の音楽家の一人と断言できます。

というよりも、尊敬の念がやまず、むしろ自分みたいなものがこんな素晴らしい人と共演してしまってよいのだろうかと思ってしまうことさえあります。

皆さん知ってのとおり第1回仙台国際音楽コンクール第一位、オーヴェルニュ室内管弦楽団コンサートマスターを経て、現在パリ国立放送フィルハーモニー管弦楽団のソロコンサートマスターです。

優勝した次の年に仙台市のコンクール委員会よりルセヴさんが仙台でコンチェルトを演奏する際、仙台のメンバーと室内楽をしたいというので、依頼されたのが彼と出会うきっかけだったと思います。確か彼の大好きなチャイコフスキーのピアノトリオだったと思いますが、その最初の音を聴いたときからショッキングでした。

それは言葉に言い表せないもので、それからというもの彼のファンとなってしまい、ことあるごとに共演の機会をいろんな方に作っていただいたり、作ったりしました。

彼の凄いところは音楽もさることながら、その人柄です。私の中のマイ格言で「ほどほどに凄い人はすぐ偉ぶったりするが、頂上にいる人は人格も素晴らしい」というのがあるのですが、彼は非常に頭がよいのですが、気さくで常にその切れる頭脳をひけらかさず、また家族を(素敵な娘がいる)非常に大切にし、友人を大切にし、常に好奇心旺盛で、常に日本食にチャレンジし、気分が乗れば内輪(うちわ)のパーティーでも喜んで演奏してくれる。リハーサルは非常に厳しく細かいが、決して人を傷つけない。

こうやって書くとあまりにもできすぎた人のようですが、バランスの取れている人はそれがあまりにも自然で、いわゆるフツーのひとに一見見えるのが不思議です。

あるとき長野に演奏に行って帰りの電車のチケットを私が見たところ、彼が「そのチケットを見たい・・・」というので「?」と思いあまり気にしませんでしたが、何回かいうので見せたら、実は私のだけが出発時間は合っていたのですが、一日ひにちが違っていたということがありました。まず数字以外は日本語、漢字でわかるわけも無く、見たのも一瞬だったのですが、それもさりげなく指摘するところが「ん~~~」とうなってしまいました。

世界のコンサートマスターは普通の観察眼だけではだめで、いつもどの国でもやっていけるエスパーみたいな能力があるような気がします。第一彼はブルガリア人で10代からパリに来て独学でフランス語を学んだそうですが、私の友人のパリジャンは「初めてルセヴに会ったとき外国人とわからなかった」くらいフランス語がぺらぺらだったとのこと。英語は当然ぺらぺらです。

彼は今年から2カ月おきくらいにソウルフィルのコンサートマスターも兼任することになったので超大忙し。でも日本に来やすくなったのでもっと頻繁に来てほしいです。今度はハングルが超うまくなってたりして・・・・

日本でもどこかコンサートマスターで呼んでくれる所はないのでしょうか???

さて、ここまで読んでいただいた方、本当にどうもありがとうございます。少々陰気な話もあり失礼いたしました・・・。まとまって文章を書くことも最近なくなったので、今の時点での思っていることを書かせていただきました。

しかしながら私が一番嬉しく楽しみなのは、皆さんとコンサート会場でお会いして、音を通して会話ができるかもしれないことです。是非皆さんコンサート、それ以外のときでも気軽に声をおかけください!

どうもありがとうございました。

中川賢一
2007.07.06

中川賢一(6)

J.S.バッハ作曲
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第二番 ニ短調 BVW1004より シャコンヌ

この曲はおそらくある意味であらゆるクラシック音楽の最高峰のひとつとして数えることを否定する人は少ないのではないでしょうか。はじめのテーマが三十数回様々な形を変えて変幻していく様は、そのテーマのあまりの厳粛性のために、あたかも一人の人間(テーマ)が様々な人生の場面に出会うそのドラマのようだともいえるでしょう。

このヴァイオリン一本のための巨大な建築物に果敢と立ち向かったのが、ヴィルティオーゾ、リストの高弟、フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)です。

この編曲はおそらくはじめはパイプオルガンが大聖堂に鳴るその響きを意識して書かれたのではないかと私には思われます。そこからピアノ一台で演奏できるように変えたのではないでしょうか?

その荘厳な響きと沢山の色彩はいつも私を魅了いたします。

この曲は自分が何かにぶつかったときにいつも助けてくれた曲です。
また、私事ですが、父が亡くなった直後に練習を始め、母が亡くなったときに毎日追悼で流していた曲です。

さて、音楽について言葉にするのは本当に難しく、すればするほど本来の美しさから遠くなっていく気がします。この辺で曲のお話は終わりにしたいと思います。

中川賢一
2007.07.05

中川賢一(5)

仙台クラシックフェスティバルの中で私のソロを行う日は、当然といえば当然ですが、私の大好きな曲を演奏させていただきます。

フランスものはブログでも書きましたが、私の憧れです。

ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ・・・は私の今までを通して演奏してきた曲で、大学に入って最初に覚えた曲です。そのときライマー=ギーゼキングのピアノの教本にはまっていて、確か、「譜面を読んだら、どのようなタッチで、どのような表現で弾くか完全に意識できて、暗譜するまで実際のピアノに触ってはいけない」といったものだったと記憶しております。それを真に受けて本当に数日うなりながらピアノに触らず、覚えた曲です。

今ではもちろんさすがに、そのような覚え方は不可能ですが、何も知らないというのはある意味で怖いと思いました。自分の生活で、なにか壁にぶちあたったり、またはとてもいいことがあったときなど様々な節目に、いつも自分のために演奏してきた曲です。

母親のお通夜にも私の演奏の録音を流し、法要でも母の遺影の前で演奏した曲です。他にも様々な意味合いを持った曲です。

ちなみに、この曲のタイトルが思わせぶりですが、実は特にラヴェルの中で実際誰か「亡き王女」が存在していたわけではなく、フランス語で実際音声にした時にとても素敵な響きだったからその題名にしたといわれております。なかなかしゃれた名前の付け方ですね。これが「パヴァーヌ第一番」だったらここまで有名ではなかったかもしれませんね・・・この曲はとてもゆったりした曲なのですが、実際のパヴァーヌはもっと速いというのももともとの意味と違って、なかなか興味深いです。「パヴァーヌ」とは「孔雀の踊り」とも言われていて、そういった意味ではむしろラヴェルが作曲したようなゆったりとした音楽は題名にあっていると思われるのですが・・・昨年ブレイクした「のだめカンタービレ」でもオーケストラバージョンで流れていたそうですね。でだしのメロディーはホルン・・・実は私は中学校の時にホルンを吹いていました・・・何かと奇遇です。

ちなみにこの曲、彼がパリ音楽院在学中の作曲ですが、すでに彼のトレードマークにもなる曲を書いていたとはなかなかですね・・・

ドビュッシーのアラベスク第一番は「アラベスク」というのがそのままの訳だと「アラビア風」とでもなるのでしょうが、アラブから沢山輸入された絨毯が唐草模様で、素敵に線が絡んでいる様子を現しているともいわれておりますが、非常に素敵な曲ですね。「月の光」は説明の必要がないほど有名な曲ですが、何回演奏してもピアノの和音のポジションの配置の仕方に惚れ惚れします。

以上の曲はとても気持ちのいい曲です。時々思うのですが演奏会中に気持ちがよくなったら寝てもよいのではないかと思うことがあります。周りに迷惑さえかけなければ、お金を払って来ていただいているのですから・・・私のこの曲でもし気持ちよくなったら是非目をつぶり、「寝て」みてください・・・いびきだけはかかないように・・・・・

中川賢一
2007.07.04

中川賢一(4)「符号」

突然暗い話になって申し分けありませんが、今年一月に私の母が亡くなりました。病気でしたが突然で、5日前に最後に会ったときもとても元気でした。突然呼吸困難になり自力で病院に行ったそうです。私は亡くなる前日(といっても発病の翌日)に駆けつけ一晩看病し、最後まで見取ることができました。

すでに8年前に父が亡くなり、兄弟もいないため、都合2回喪主を行ないました。

いろいろなことがあり、それなりにこたえたことも沢山あったのは事実ですが、ここで、それについての感傷的な話をすることが目的ではありません。

ただその前後にかかわった曲についてお話をさせていただきたいと思います。

母が亡くなる二週間前に私とヴァイオリンとのデュオの演奏会を聴きに来てくれました。これが彼女の聴いた最後の演奏会です。そのときはモーツァルトのK304を演奏しました。この曲はモーツァルトの母親が亡くなったときに作曲した曲といわれております。

亡くなる1週間前に友人が私にある曲の弦楽オーケストラへの編曲を依頼して来ました。曲は”Time to say good bye”でした。元気な母の顔をみた最後の日に、とある人のオリジナルで「さよならのさは桜」という曲のアレンジを完成しました。母が亡くなって最初の公開演奏ではドビュッシーのチェロソナタでした。ドビュッシーが直腸癌の宣告を受けた直後の作品と言われております。8年前に父が亡くなった直後の最初の演奏会も同じ曲でした。

葬祭時の最中に毎日練習しておりました。昨年、年も押し迫るときに、ある友人からミシェル・ルグラン作曲の歌で譜面が無いので聴き取ってコピーしてほしいといわれました。歌の曲で“Dans le même instant”という曲です。後半の詞です。

この瞬間に 地球の果てで 幾人もの兵士が 日の光の下死んでゆき
この瞬間に 他の誰かと入れ替わる それでも私たちは抱き合う
この瞬間に 飛行機は飛び立ち 子供は学校で その音を聞いて夢見る
この瞬間に 老人は息を引き取り こどもはため息をつく 男は20才
この瞬間に 人々は嘆き あるいは歌い 耄碌し 息を引き取る
苦しみあるいは祈る 時間に溺れ 空間に迷う
私たち二人は抱き合う それが生きること

昨年12月、クリスマスに私の唯一のCDが完成し、早速実家に沢山の段ボール箱とともに運ばれてきました。1ヶ月は母も聴く事ができたと思います。ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌやバッハ=ブゾーニ:シャコンヌが入っております。

私が、母危篤の合間に、実家に大事なものを取りに行ったあと、母の乗っていた車で再度病院に向かおうとエンジンをかけたときに「パヴァーヌ」が鳴り出しました。常に聴いていたようでした。ちょうどそのとき彼女は人工呼吸を入れることになり30分前まではしっかり話をしていましたが、私が着いてからは話ができない昏睡状態になっておりました。

現在これらの曲は自分の中ではとても大きな意味を持っております。
以上のことはある意味で予定されていたことではないのですが、世の中には不思議な符号があるなあ・・・と思っております。

中川賢一
2007.07.03

中川賢一(3)

私は、ベルギーはアントワープというところで勉強していた時期があります。なぜそこに行ったかというと、もちろん素晴らしい先生にめぐり合えた事と、様々な方のご協力があったからこそ・・・と思っておりますが、もっと直接的な理由は食事と風土でした。

旅行ではないので、食事は毎日のことなので口に合わないと過ごすのがつらいと思っていたからです。また気候も、一度住んだらそこから抜け出すことはできないので重要でした。食事については私個人の独断では、ベルギーはヨーロッパの中で最高ではないかと思っております。ここで曲解されないためにも一言付けくわえさせていただきますが、「ベルギー料理」が「ヨーロッパの中で最高」と言っているわけではありません。もちろんムール貝や、ワッフル、チョコなど素晴らしい料理がありますが、それも素晴らしいとして、世界各国の料理が比較的高くない値段で食べることができるのです。

「高くてうまいのは当たり前」と私自身は思っておりますが、まずベルギー料理、フレンチ、イタリアンはもとより、ロシア、ギリシャ、トルコ、モロッコ、韓国、中華(広東、北京、四川、香港)、日本(寿司、定食、焼き鳥)、ベトナム、インドネシア、マレーシア、インド、クロアチアほか沢山の国の料理が私の家から歩いて30分以内のところにありました。かなりの店がかなりのクオリティで毎日飽きることがありませんでした。ベルギービールも見逃せません。400とも600ともいわれている種類のビールはほとんど地ビールで、ラガー系から、黒ビール系、果物のフレーバーによるフルーツ系など全く飽きません。ベルギー人はお金が無くとも週に一回は家族で外食をするとも聞いております。貯蓄はあまりないのですが、それでももらったお金は、まず食事に使うのが大好きなようで、皆さんおいしいものを食べるのが大好きなようでした。その人生を謳歌する態度に感動を受け、住んで学ぶことを決意したといっても過言ではありません。

この国は小さいため、税金が非常に高いのですが、その代わり相当の年金が入るために、退職を楽しみにしていて、老後は悠々自適です。いいレストランでお昼を食べているお年寄りも多いですね。失業保険もかなり充実し、医療も心臓バイパスの技術は世界屈指で、頻繁に手術が行われております。

次に気候ですが、ベルギーは基本的に「曇り」か「霧雨」しかありません。本当の快晴はほんの数時間のことが多く、雨も集中豪雨になることは本当にまれです。しかしながらいつも折り畳み傘は無いといけない・・・冬は朝9時半くらいにならないと明るくならず、15時には暗くなってくる(夏は逆ですが・・・)というところも、冬の鬱蒼としたものに対して嫌悪感をそれほど持っていない自分にとってはなかなかいごこちがよいものでした。なぜかそういった暗い空間では家にこもってじっくり音楽のことを考えて練習できるので、留学して自分の演奏を向上させてこようという者にとってはよい環境だったといえると思います。ストレスがたまったらおいしいものを飲んで、食べたらすぐにどこかに飛んで言ってしまう。そんな生活でした。

中川賢一
2007.07.02

中川賢一(2)

私の中では仙台のイメージは冬です。空はいつでも曇り。こう書くと非常にネガティヴな印象を与えかねませんね。でも人間が一日中スカッとした状態にいることだけがその人にとって本当に幸せなのだろうか、アートを生成することにとって有用なのだろうかとも思うことがあります。私自身、実は幼年時代は、もしかしたら無意識のうちに今も、鬱々としていることが常で、ではその状態が苦しみであると自覚していても、自分にとって本当にいやな状態なのであるかというと「?」です。その鬱々とした状態の中だからこそ、私の思っている「深い」クラシック音楽をむさぼりたいとも思うのと、そのときに私に与えるネガティブをポジティブに変えようとする内的な変化はひとつの「希望」であって「希望」があるからこそ物理的に生きる原動力となるのかなあ、と思っておりました。どうしてもある種の動物や、虫のように食っちゃ寝、食っちゃ寝という生活を苦も無くできればよいのですが、人間はどうしても感情があるために、なかなか行動が規則的に行かない側面もあり、だからこそそのいびつな溝をもしかしたら音楽のようなアートで埋めていって、どうにかこうにか精神的な均衡を保っているのではないかと思う事さえありました。これもいつも鬱々としている仙台の中にいるからこそ味わえる、不均衡さの中での均衡を感じているからこそ思うことなのですが・・・つまり私は仙台に生まれ育ってよかったということです。

どうやら仙台は日本で何番目かに日照率の少ない、また天気を予測しにくい都市らしいです。この曖昧さと予測難の不安定さは嫌いではありません。

北の鬱蒼とした音楽、ラフマニノフ、チャイコフスキー、シベリウス、グリーグ、ブラームスほか、雪、時には吹雪と退屈なまでの雲の天井を想起させる音楽は非常に自分にとっては身近です。そういったにび色の中に沸き立つ長い持続を持った暖かい感情は私にとってかけがえのないものです。

それに対して以前はフランスの音楽は憧れでした。あの軽く色彩感に溢れた世界は自分とは全く正反対のものに思えました。私の知っているパリはそれに反して、華やかな街中とは対照に、天気はなかなか曇りが多かったと記憶しております。そのやはり「グレー」の世界の中に、時々垣間見せる鮮やかな光を見出そうとしたフランス音楽が自分の中でもふつふつと身近に思えるようになってきました。私の中でのドビュッシーやラヴェルは、単に響きが美しい、綺麗というだけではなく、もやもやした人間の感情を、名人芸的なプリズムによる美化で、黒いものも、グレーのも、白いものも色彩を帯び、与えられて甘味を感じさせられます。それが、いくばくか皮肉めいたユーモアが感じられるというのも、人間の多少否定的な回路を通した快感も、どちらも単に「感じる」ということであるために、自分の体内にある自然な感情の生理に対して嘘はついていないと思うと、実はストレートに快感を得ていると思うと、これももしかしたら仙台という土地で自然と培われた感情なのかなあと思うときもあります。

中川賢一
2007.07.01

中川賢一(1)

みなさんこんにちは!ピアニストの中川賢一です。私は仙台に生まれ育ちました。大学時代は東京で、外国にも留学しましたが、いつのときでも自分の心のふるさとは仙台にありました。今回は3日間仙台クラシックフェスティバルに参加できて、仙台人としては本当に光栄です。

仙台に生まれてよかったことは本当に沢山ありますが、まずは食べ物と自然です。といっても私が育った子供のときと現在ではかなり違っていることも申し上げなくてはなりません。

「北国」・・・といっても今となっては大雪を見ることもなかなかなくなってきました。いま仙台を雪国と思っている方は少ないかもしれませんね。私は仙台の冬が大好きでした。

以前は冬になるとかなりの量の雪が積もり、長靴なしでは外を歩くことはできない状態で、頻繁にそりすべりをするために小さかったときも重いそりを抱えて坂のある林に通っておりました。当然手はかじかむのと、頬は真っ赤になって言葉も話せないほど体が硬直してしまうのにもかかわらずそりすべりをしていました。林の中の坂をすべると思わずスピードあまって、さらに奥の草むらの中まで突っ込んでしまい、一緒にいた友達が私のことを見つけることができないこともありました。今だったらこんな危険な遊びはさせてもらえないのかもしれませんね。そりすべりを終えて夕方暗くなって変えるときの心細さといったらなかなかのものでした。今のように電燈も沢山無いために100メートルごとの木の電柱にぶら下がるさびしい電球を頼りにとぼとぼ歩いていたと思います。おそらく小学校低学年からそのようなことをしていたと思います。今は「不審者」などとかで子供が一人出歩くというのは危険視されますが、私はそういった意味では危険だったかもしれませんが、みんなそうしておりました。その帰りがけ、親に怒られる19時くらいには、すでにそれほどの人影も無く、しんしんと降る雪の「音」を聞くことができ、また夕暮れのなぜか青白い全く足跡のない平面の雪の絨毯を見ているとミステリアスで、子供ながらに狂気のこもった空間は、怖いのにもかかわらず魅力的でした。ドビュッシーの前奏曲で「雪の上の足跡」という私の大好きな曲がありますが、このシュールな世界はすでに私の中では幼少のうちに、もしかして見ることのできるものだったのかもしれません。

今はすべてがある意味で豊かで満ち溢れています。しかも、いつでも明るい。冬の夜でさえ、煌々と電燈がともり常に車がはしっている状態は私の中では「暗くなった昼」です。すべてが眠り、死んでいる・・・常に自然に昼の「生」と夜の「死」という、もしかしたらあまりにも短絡的かもしれないが、生物の諸行を感じる空間を幼少時に味わうことができたのはとても幸せだったといってよいかもしれません。

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