
私の演目に興味を持っても、「指揮者って、あまり知らないし、おもしろく感じるかな…」と思われるでしょう。
それは安心してください。
ふだん、私の活動の場は寄席です。そこに来るおじいちゃん、おばあちゃんの9割ぐらいは、「クラシック音楽なんて…」の人たちなのです。その観客に笑ってもらわないといけないのです。
そんな人たちに「なんか、指揮者っておもしろそう。今度、じっさいに見てみようかしら」と思わすことが、私の芸人としての真骨頂なのです。
逆に指揮者に詳しすぎる人がお客様だと、「違うだろ、もっと似せろ、勉強しろ!」と、こちらは冷や冷やもんです。
この芸は、脚光を浴びなくてもやり続けることが意味があると信じてやっています。
そうです、「オンリー1」なのです。ま、アホらしくて、誰もやらないからだと思いますが。
「なんで、そんな指揮者の物真似をする気になったの?」
よく聞かれる質問です。理由は単純。演じている自分が気持ちよくて、
見ている人にも楽しんでもらえると思っているから。
いつから指揮者をやり始めたか。それはもう小学生のときから。小学生の四年生頃に音楽の時間に聞いたケテルビーの〈ペルシャの市場にて〉を聴いてクラシック音楽が好きになり、FM放送でエアチェックしてそれこそむさぼるようにクラシック音楽を聴きました。
当時はヘルベルト・フォン・カラヤンが人気がありました。レコードジャケットには、目をつむりながら陶酔するカラヤンの指揮姿の写真。
そして、テレビとかでたまに放送するカラヤンの映像を見て、
カラヤンって、かっこええやん!
それからは、箸を片手にカラヤンの真似事を、レコードをかけて悦に入ってするようになりました。
中学に入ると、クラス対抗の合唱コンクールが校内で催されました。そのとき、私はカラヤンになるのだ。
音楽に関心のない男の子もおもしろいから、すごく協力してくれる。やる気も練習量もちがうから、私のいるクラスは三年間、合唱コンクールでは圧倒的に一位になりました。
高校に入ったら、もう音楽への渇望は止められない。
ブラスバンドに入ってふだんはチューバを吹いていましたが、顧問の先生がいないときは率先して指揮をしました。
それもストコフスキーばりに、解釈も編曲もやりたいように変えて。
その頃には、カラヤンだけでなく世界の巨匠が私のレパートリーにどんどん加わっていきました。
高校の頃に『漫才ブーム』があって、ツービート、B&B、紳介竜介などがテレビで活躍していました。
それからしばらくはお笑い勝ち抜き戦番組がテレビで花盛りでした。
二十歳のときに初めてテレビに出ました。TBSの『ビートたけしのお笑いサドンデス』。
豪華な賞品に目がくらんでの応募でしたが、当日、司会の三田寛子さんが、「本日からチャンピオンの賞品が変わりまして、今までは車とか海外旅行でしたが、本日からはビートたけしさんからすばらしい芸名がもらえます」
何すんねん。でもそこで画用紙に書かれた芸名を今も使わさせてもらっています。
吉本新喜劇に在籍したり、NHKの教育テレビの『あしたもげんきくん』という新番組でげんきくん役をやったり、ヨーロッパで大道芸の旅をしたり、寄席芸人をしながらも、私はこの指揮者形態模写にこだわりながら、細々と活動をし続けています。
指揮者物真似は珍しいので、時々はスポット的にメディアに取り上げられたりしてましたが、ここ数年、急にクラシック音楽業界が私に興味を持って、声をかけてくれるようになりました。
その中で忘れられないのは、今年3月5日の「仙台フィルと好田タクトの楽しくクラシック」(写真はそのチラシ)。
あの仙台フィルと共演しました。
会場となった石巻市民会館が、お客様でぎっしり埋まっている。
す、すごい…、こんな雰囲気で始まるのか…。
無我夢中で舞台は終わりました。
おおいに笑っていただき、最後の朝比奈隆の物真似で、ワーグナーの曲が終わったとき、観衆のみなさまがスタンディングオベイションをしてくれました。
もう、鼻水が出て涙が止まりませんでした。
こんな素敵な街に、また来れる。
タクトはもう燃え尽きてもいいから、なんとかいい舞台を作りたい。
今からプレッシャーで胃が痛みますが、世界のどこにもない楽しい舞台を作り上げたいと思います。
好田タクト(パフォーマンス)