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SENCLA BLOG

ブログ

竹内将也
2009.08.18

小なるオーケストラと大なるオーケストラ

先回のリズム・テンポの話は、私たち人間の体内で起こっている「生体リズム」にも共通して言えることだと思う。心臓は常に脈打っている。また、脳にも脳波があってその波長の違い( テンポの違い) から様々な脳波が観測されるという。低い( 遅い) 波から高い( 速い) 波まで、これらの脳波がひとりの人間から常に出ている。つまり電氣振動している。安静時にはアルファ波が強く出ている等言われて、その人その時の心身の状態を間接的に示す目安になっている。

身体の作りを見ても興味深い。人間の身体は関節によって様々な動きをするが、足首、膝、腰、肩、首、肘、手首だけ見てもそれらの関節を中心に円運動をしている、多重振り子であることがわかる。それぞれの部分のリズムが調和して骨格を形成している。「棒立ち」では動き得ないのである。人間の関節はいくつあるのだろう?

先述の脳波のように、一つの脳から複数の波が見られるのと同様、声や楽器の「音色」というのも、複数の波で成り立っている。一番低い音波を「基音」といい文字通り土台の音、その上に「上音」と呼ばれる様々な高さの音波が無限に息づいている。この上音の構成の違いが音色の違いを生む。やはり音も上へ向かって響いているのだ! 音波は振幅だから回転しているとも言える。即ち音自体がリズムで、大小無限のリズムが調和して回転している、とも言える。

オーケストラの響きはその人数分の音が基となる訳だが、一つの楽器から無限の音波( リズム) が出ているのだから、無限の二乗倍となる。
こういった事象から、限りない調和の可能性が見えはしないだろうか。単なる音程やリズムの整列、といった表層的な次元を超えたものとして。

光は粒( 光子) の集まりだという粒子説と、波( 場) だという波動説の、これらどちらかが正しいということではなく、実は光には粒と場(波)という二重の性質があるという。
粒だけを見ようとすれば波としての性質は見ることができず、波としてとらえている時には粒としての性質が見えない。人間の脳は1つのモノに対して見られるこれら2つの性質を同時に見ることが出来ないという( N. ボーア「存在の相補的二重性」)。「場の研究所」主宰の清水博・東京大学名誉教授はこれをもとに場と個人との関わり合いについての研究を進めている。

個としての性質を局在性と呼び、全体に拡がる性質を偏在性と呼ぶ。先回のテンポの話もこの相補的二重性が認められる。局在化したテンポ6 0という円運動から同じく局在化した他のテンポを求めるには、これら2つのテンポに共通して存在する偏在的なある何かを感得している必要があるからだ。

オーケストラが社会に於いて存在する意義というのは、まさにこの「相補的二重性」を認め、その音楽をひらいていくことにあると私は思う。画一の全体主義や機能性を追求することは確かに「美」として求められるが、局在的要素といえよう。無限に小さい( 速い)リズムと無限に大きい( 緩い) リズム、両極端が感じられる響きとは、仏教で言う一即多・多即一に通じるだろうか。

オーケストラのステージでは、その人数分の心臓が鼓動している。そして会場には数千人の聴衆が。
それら全ての心臓が大きなひとつのリズムと呼応するビートで、意味のあるリズムを!そして立ち上がる響きを!
竹内将也(パーカッション)

竹内将也
2009.08.17

意味あるリズム、意味あるビート

「私はリズム感が悪くて・・・」という声を聴く。
あるパターン、組み合わせといった「枠」でリズムをとらえようとすると、単なる知識としてしか見えてこない。複雑なパターンとなるとそれを覚えることに躍起になってしまい、リズムを身体表現することから離れていってしまう。

今回の公演で私が意図したいことは、こういった現実問題へのひとつの提案である。
メトロノームによって私たちは様々なテンポを速やかに確認することができる。1秒はテンポ6 0。1分間に6 0回転するという意味である。では1分間はというと、1秒が6 0回とか、1時間に6 0回転するうちの1 つ、などという言い方になる。つまりは相対的な尺度に過ぎず、これではテンポ60それ自体の速さが何なのかを絶対的に説明してはいない。

動いているメトロノームをじっと睨みつけ、自分の演奏をそれに追随させきることが正確なテンポの表現といえるのだろうか? 言い換えて、他者のリズムに正確に合わせることが良いリズム感なのだろうか?
テンポ6 0= 1秒このテンポ6 0を身体に覚え込ませるだけで、様々なテンポを自分で作り出すことができる。
60× 2= 120
× 3= 180
× 4= 240
× 5= 300
× 6= 360
× 7= 420
× 8= 480
× 9= 540
× 10= 600
まずテンポ60で円周を指で空中に描く。
その2倍の速さで円周をつくるとテンポ6 0の中に2回転がとれる。この1回転分がテンポ1 2 0である。イチ、ニと声に出してカウントもしてみる。ひとつひとつをハッキリと!
ここで注意して頂きたいのは、あくまで「2倍」の感覚であり、半分に割るという感覚とは異なる。より言えばイチ、二でもなく、イチ、イチといった感じで。文字通りイチイチ云うのである。
カウントを何か言葉に換えてみる。60の中で「タケウチ」を唱えればテンポ2 4 0がつかめる。タケウチマサヤにすれば420である。
このように言葉や「ドレミファソラシ( これで7 つ)」など一文字単位で唱えれば、数字でやるよりも正確で楽である。ハッキリした日本語の誕生!

今度はこのようにして出したテンポから任意の長さを採ってみる。
先程のテンポ120を解説すると、テンポ12 0は6 0と1 : 2 の関係だから、テンポ60から2回転出してそのうちの1回転分が120になる。これはマーチのテンポ。テンポ90は60と2 : 3 の関係だから、テンポ60から3回転出してそのうち2回転分を採る。ドレミ・ドレミ・ドレミ~ と唱えながら同じ速さのままドレ・ドレ・ドレに言い換える。
テンポ80は3 : 4 。4 回転だして3回転分とる。
ドレミファ・ドレミファ・ドレミファ~ → ドレミ・ドレミ・ドレミ
テンポ100は? 70は? 40は? やってみてください。

このようにして得たテンポをもとに、好きな歌を歌ってみてください。今までと違う感覚がありませんか? 拍子に回転感覚のある、生きた音楽のはじまりです。大きなリズムを曖昧にしなければ、同時に小さなリズムも蔑ろにしない、一つ一つのリズムに意味が出てきます。
テンポ6 0= 1秒がもともとは地球の自転のリズムから生まれたことを考えれば( 実際にはズレがあるのがまた興味深い)、テンポとは大自然の息吹ということができる。

私たちはそれを音楽のビートとして微分・積分して利用している訳である。
こうしてくると、我々が接しているテンポとは、宇宙の大きなリズムの中から見い出された、言わば小さな宇宙のリズムと見ることができるのではないか。自分でテンポを作り出すということは、私的な行為でありながらも、公的な現象であり、他のあらゆるテンポとも調和する。これは音楽が私達に教えてくれる最高の啓示の一つではありませんか!
竹内将也(パーカッション)

竹内将也
2009.08.16

響きは立ち上がる

地球に生命が誕生してから三十数億年の時が流れているという。水から陸へ活動の場を求めて、生命は常に上の方向を目指してきたように感じる。海の中をどことなくさまよっていた時代から、自ら動き食を求めて陸へ上がり、飛ぶ者も出た。その流れの中で、脊椎動物として四つ這いだった身体を直立させた私たちの祖先が居る。

植物においても、それらは太陽という、生命にとって欠かせないエネルギーを発する物体へ向かってその丈を伸ばしている。一方大地に根を下ろすのだが、そこでは大地からの養分を受け取って下から上へ吸い上げている。

植物は光合成によって水と二酸化炭素から炭水化物を作り、その結果酸素を排出する。
動物は逆にその酸素を採り入れて体内の物質を酸化させ、二酸化炭素を排出する。
解剖学者の三木成夫( みきしげお、大正1 4 -昭和6 2) 氏によれば、動物の腸管を裏側にひっくり返すと、それはちょうど植物となると解説される。

楽器は自然の動植物または鉱物を加工して作られる。太鼓は一概に言えば主に木を胴としてその出入り口に動物の皮を張ったものである。ヴァイオリンも木製の共鳴体にして、発音体である弦は元来羊の腸を用い、弓は馬の尾である。
演奏という行為は身体を動かすことによって生じる。人間は食物を摂取し、蓄えた養分を燃焼させ水と二酸化炭素を排出するとともに、動力を得る。残った固形物は排泄されるが、昔はこれが食物を育てる為の肥料となり、江戸時代には健康な人のものほど高値で取引されたという。何一つ無駄なものはないのである!

このように人間は大自然が織りなす大きなリズム( = 息づかい)の一過程として生活( 生命活動) をし、そして音楽を奏でてきたと言えよう。
人間が直立( 真っ直ぐに立つ) するという出来事は、この大自然のリムの中で何を意味するのか。日常生活における「立つ」仕草は、積極性があり、ことの始まりを予感させる。立ち上げる、役に立つ、顔が立つ、立役者、立ち振る舞い、旅立ち・・・。

音も立てるものである。西洋音楽は教会で発達し、旋律は常により高い音を目指すエネルギーによって進行し作品全体が構成されている。低い音に回帰することは更なる高い音を目指す伏線となる。立ち上がる響き。教会では賛美歌が歌われる。
日本でも音楽は神事につきもので、祭と呼ぶものには神楽が奏される。特に太鼓は神聖なものとして神社に奉納される。拝む両手の先は天を指している。

こうして大自然と共に生きてきた私たちの祖先が目指してきたのは、紛れもなく「上への方向」であることが明らかになってくるのだ。
竹内将也(パーカッション)

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