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SENCLA BLOG

ブログ

佐藤淳一
2006.08.19

荒城の月

今回が最終回、今までお付き合いいただきありがとうございました。

僕は生まれてから高校3年生まで会津若松で過ごした。市内の中心には鶴ヶ城があり、町のいたる所に戊辰の役の名残が点在し、たくさんの観光客を集めている。

荒城の月は、仙台出身の土井晩翠が戦火で荒れた鶴ヶ城を見て作詩したとされている。僕が幼稚園の頃に今の天守閣の工事がされていたので、僕にとっては古い荒れた天守閣はそう遠くない昔のような感覚である。

今回共演する僕の家内は大分の出身。作曲者の滝廉太郎が育ち、晩年を過ごした地でもある。会津生まれと大分生まれの二人が仙台で生活している。これはもう自分達のテーマソングだと勝手に思うようになった。その荒城の月が数年前に教科書から外されるという話になった。僕にとっては一大事。テーマソングが歌われなくなる危険性が生じたからだ。

その頃から荒城の月の他、日本の四季折々を感じさせる歌をできるだけ多くの子供たち、もちろん大人の人たちにも聴いてもらおうと、コンサートのプログラムに必ず加えるようにしてきた。

今回も是非聴いていただきたい。

自分のふるさとを思いながら、また小学生の頃の校庭裏の田んぼの風景を思い出しながら歌いたいと思う。

ちなみにピアノ伴奏の小熊由里子さんは仙台市出身である。

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.18

男声合唱

僕が入学した高校は福島県立会津高等学校。伝統ある男子校である。音楽を志す僕は、迷わず合唱部に入部した。もちろん男だけなので男声合唱だった。中学生の時に混声三部合唱を歌ったことはあったが、男声のそのハモった時の快感は混声の比ではなかった。体全体が共鳴するような、その響きの中心に自分がいる感覚は言葉では表現し難い。僕はどっぷり男の世界にはまってしまった。

大学に入っても、合唱は忘れられず仲間と合唱団を作ったりしたが、その頃に出会ったのが合唱指揮者の辻正行先生。大学で一年先輩のお父さんでもあった。僕が合唱経験者ということもあり、辻先生の事務所で、音楽の仕事を与えてもらうようになった。

そのうちに同じような人たちが集まり男声合唱団ができた。それがクロスロード・シンガーズである。これがまたユニークなメンバーが揃っていて、キャッチフレーズは「教会からキャバレーまで」となった。メンバーの中に編曲者はいるし、ポップスに演歌、それに宗教曲まで、とにかく節操無くなんでも歌ってしまう。演技派揃いで声もよく出る。

我々約20名と女子高生約100名とで混声合唱を歌ったこともあった。スクールコンサートでもあちこち行ったし、僕にとっては非常に楽しい男の集まりだった。僕らの社長でもあった辻先生は3年前に他界。心の中にぽっかり穴があいた感じだった。クロスロードのメンバーもそれぞれが忙しくなり、なかなか集まれなくなった。…合唱を聴きに来てこんなに笑ったのは初めてだと言われた言葉がなつかしい。

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.17

花言葉

私が所属している仙台オペラ協会で、今年度はこの「花言葉」というオペラを公演する。

ほとんどの方は初めて聞く演目ではないかと思う。原作は、スペインの作家ガルシア・ロルカ、作曲はイタリアのレンツォ・ロッセッリーニ、彼はイタリアの映画監督の巨匠ロベルト・ロッセッリーニの弟である。

おおよそのあらすじは、主人公のロシータは従兄と婚約しているが、その従兄が遠く離れた自分の実家に戻ってしまう。その彼を待ち続けるロシータ。月日は10年20年と過ぎていく。20数年後に、その従兄は8年前に既に地元で結婚していたと手紙を送ってくる。20歳だったロシータは40代半ばを過ぎオールドミスとなってしまう。僕はその従兄の役。婚約者を20年以上も待たせながら裏切ってしまう本当に悪いやつだ。

今回の演出家はイタリアから招いた。

先週より立ち稽古が始まった。これがまた面白い。楽譜から創造していたものよりももっとオーバーで激しく、僕は益々悪い男になっていく。ピンカートンを歌ったときも、公演後にある方から、あなたって本当に悪い男だったのねと言われたことがあった。今回もそのように言われるよう、歌い演じたいと思う。

音楽は大変綺麗だし、スペインのアンダルシアの匂いがぷんぷんしてくるし、その上これぞイタリアオペラだという歌いまわしが随所にあるし、知らないオペラでも十分に楽しめると思う。

フル編成オーケストラでは日本初演となるので、この歴史的瞬間に是非たくさんの方々に立ち会ってもらいたい。公演は今度の9月2日・3日宮城県民会館にて。

問い合わせはオペラ協会事務局022−264−2883までどうぞ。

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.16

カルメン〈2〉

三度目の公演では、初めてドン・ホセを歌わせてもらった。

原語での公演、僕にとっては初めてのフランス語だった。学生時代にちょっとフランス歌曲を勉強したのと合唱曲で何曲かフランス物に触れたことがある程度だったので、ソロでフランス語をそれらしくお客様に聞かせるための努力が必要であった。

そこで私は、自分の職場のフランス語の堪能なアメリカ人の先生に教わることにした。初めは英語でフランス語を教えて下さるつもりだったようだが、あまりに僕の英語力が低く、主体は日本語に。

本人曰く、母国語は英語なのに、外国語である日本語で外国語であるフランス語を教えている自分が非常にコミッシュだ。語学の先生がそのように言われるのだから、きっと、何ヶ国語を話す人でも言語を即座に切り替えるのはそんなに簡単なことではないのだろう。会津弁と日本語しか話せない者にとってはかなり高度な話であるが…。

本番までに一番考えたこと、それはどういった心境になれば人を殺したくなるのか、ホセはなぜ最後にカルメンを刺さねばならなかったのか、これだけは経験できないし、してはならないので、とにかく一生懸命考えた。

結果…僕の教え子が二階席で聞いてくれて、最後は自分も殺されるかと思ったと感想を述べてくれた。

僕にとっては大成功!演じていた自分としては、気持ちは乗っていたが、非常に客観的に指揮者を見てテンポを感じていて、それが逆に良かったのかなと思った。それまでの数少ないオペラ経験の中で、自分にとってもっとも充実した公演だった。

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.15

カルメン〈1〉

昨年30周年を迎えた仙台オペラ協会では、今までにカルメンを3回公演している。一回目は日本語で、二回目はサンフランシスコオペラと合同で、三回目はフランス語で行った。

一回目は1989年。その時なんとゲネプロで火事になってしまったのだ。

四幕もあと残りわずかになった時、照明の過熱からボーダーライトを吊っているワイヤーのごみに引火し、火が天井に走ってしまった。その時僕はレメンダード役で、自分の出番も終わりメイクも落として、客席でゲネプロを終わりまで見ようと階段を上っている途中の出来事だった。慌てて消火器を持って舞台に戻ったが、火は上に走るし、すでに為す術はなかった。

スプリンクラーが作動して緞帳が水を吸って上げられなくなった状況の中で、公演は中止せずに行われた。緞帳前のたった一間のスペースで…。昼夜二回公演、チケット完売の中お客さんは誰一人としてチケットをキャンセルしないで応援して下さったし、歌い手と合唱団は、こんな状況の中で聞きにきて下さったお客様に少しでもいい演奏をと気合十分だったし、またオーケストラも同様に演奏者一人ひとりの気持ちが音に出ていたし、今まで経験したことのない、客と歌い手とオーケストラとが三位一体となった公演だったと思う。

指揮者は星出豊先生。言うまでも無くどこの誰よりも熱かった!

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.14

小児ぜんそく

生まれながらに呼吸器系があまり丈夫ではなかったらしく、1歳になる前に肺炎を起こし、死線をさまよったことがある。その後もぜんそくの発作の度ごとに病院への入退院を繰り返してきたらしい。(幸いなことに記憶は全くないのだが)

ここからは母の話。入院中発作が起こらなければ、ピンピンしていて子供らしく元気いっぱい。目を離した隙にどこかへ行ってしまうらしい。どこに行っていたかというと、病室巡り。一部屋ごとに訪問し、母から教わった童謡を一曲ずつ歌っては次の部屋へと廻っていた。ある時は部屋の隅の一段高い所に立って歌ったようだ。3歳にしてすでに自らステージに立っていたことになる。

その頃から今の自分が暗示されていたとは…。母は気が気ではなかったらしい。発作が出ると死にそうになるし、元気な時はすぐどこかに行ってしまうし、親には本当に迷惑をかけたのだと思う。あれから40ん年、華奢な体も今や金太郎飴状態。声楽家としての体は獲得した。そして余分な脂も獲得してしまった。

ところで小児ぜんそくは12歳ですっかり良くなり、その後発症していません。

佐藤淳一(テノール)

佐藤淳一
2006.08.13

ボーイソプラノ

子供の頃、いろいろな人から女の子のようにきれいな声だと言われていた。子供心にそれは、まんざらでもなかったようである。小学校の高学年になると、僕の声は先生方から認められるようになり、みんなの前で校歌を歌ったり教科書の模範朗読をしたり、また合唱部にスカウトされコンクールに出場したり、今思えばモテモテだった。

小学6年生の夏休みに家族で温泉の湯治場に行った。そこで私の母が、変声する前にこの声を録音しておいたほうがいいと、カセットレコーダーを前にしてその年の合唱コンクールの課題曲を歌う事になった。家族はみんな川辺で遊んでいる中、僕はひとりレコーダーを目の前に置いて伴奏も何も無いところで歌わねばならなかった。

なにせこれは母の命令だからである。本当は気の弱い僕としては、恥ずかしさ・照れくささもあって、なかなか歌い出せなかった。機械を前に歌うのはもちろん生まれて初めてだし、自分だけの声を残すなんてこれも本当に恥ずかしかった。でも幼い僕にとっては母の命令である。どのくらい時間を要しただろう。自分としてはやっとの思いで歌いきった。偉い!

……そのカセットテープは今どこにいったのだろう?ペーター・シュライアーがウィーン少年合唱団にいた時のレコードのように僕のボーイソプラノも売れていたかもしれないのに…。

佐藤淳一(テノール)

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