今回共演させていただくピアニストの石川祐介さんとは、昨年の秋にとあるレストランで出会いました。石川さんのことはいろいろな方から聞いていたのですが、実際お会いした事はありませんでした。
彼と一緒に食事をしていた方は、私の知っている方で、隣の席で、一緒にお話をしているうちに、変な話ですが、笑いのツボが一緒だったので、なんとなく、「この人のピアノと合うかな」と思って、「もし機会があればご一緒に」という話になったのです。
寺の孫娘だからかもしれません。自分で言うのもなんですが、私の感はなかなか当るのです。他の人から見たら、適当に見えるかも知れませんが、結構この感は自分で信じているんですよ。で、結局当りました!!彼は本当に素晴らしいピアニストです。今回も私とだけでなく、仙台フィルのトップチェロ奏者原田さんとも共演されます。こちらもお聴き逃しなく。
私、笑いのツボだけでなく音楽のツボも合うというところを秋にはお見せしたいです。
高山圭子(アルト)
私のヴァイオリン・メモ(4)『クレモナ王朝の衰退』
クレモナは、ミラノから南東に約七〇キロ余り、ロンバルディア地方の小都市で、その歴史は紀元前三世紀にさかのぼることができます。何の変哲もない田舎町が、なぜヴァイオリン製作のメッカとなったのか、その必然性は何もありません。
これはあくまで推測の城を出ませんが、十六世紀にこの地の貴族であるアンドレア・アマティという好事家が、ヴァイオリン製作に異常なほど興味を示し、ヴァイオリン作りを始めたこと。そして十七世紀に、彼の孫であるニコラ・アマティが、祖父の趣味的なヴァイオリン製作を立派な地場産業として定着させ、ストラディヴァリウスを始めとする沢山の弟子を育てたことが、クレモナをしてヴァイオリン製作のメッカとしたのだと考えられます。
しかし、ヴァイオリンの産地としてのクレモナの栄光は約百五十年しか続かず、クレモナ育ちのヴァイオリン職人はイタリア各地に散ってゆきました。
さて、このヴァイオリンにおける『クレモナ王朝』はなぜ衰退したかを考察してみますと、クレモナの黄金時代は、フィレンツェのルネッサンス期、及びウィーンの古典主義音楽の時代が頂点を極めた時と期を一にしますが、これらの衰退とクレモナとが運命を共にしたことは、まぎれもないことです。
しかし本当の理由は、ヴァイオリンの生産過剰と、楽器及び音楽に対する時代の趣味の変化によって、ヴァイオリンのブームが去ったからだと考えるのが、最も妥当であると思われます。
そして、クレモナの最後の名工であったローレンツォ・ストレオニーは、一八〇二年に没したのでした。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
私は、演奏活動の他に、いくつかの合唱団を指導していますが、小学生の合唱団、高校生、20代、5、60代の方たちと、本当にいろいろな世代の方たちと音楽を通してお付き合いをさせていただいています。私の理想は、その年齢にしかできない音楽を作る事です。
コンクールなんかを聴きに行くと、プロ顔負けの演奏をしている子供達がいます。もちろん素晴らしいことですが、子供なのに大人みたいな声を出して歌っているのを聴くと、少し残念な気がしてしまいます。子供には子供にしか出せない声や、子供にしかできない音楽があると思いますし、できればそれは壊さないでその中で最善の演奏ができたら最高だと思うのです。
私がここ何年かお付き合いさせていただいている高校生の合唱団があります。そこの子供達は、実際歌の技術は必ずしも上手いとは言えません。ですが、演奏を聴いていると、とても心を動かされます。彼らが、純粋に音楽が好きなんだということが伝わって来るのです。ですから、彼らのコンサートで、お客様はみんな感動してくれます。
音楽と言うのは本来こういうものであって欲しい、と思ってしまいます。ともすれば、どうしても技術だけに走りがちになってしまいますが(もちろん技術は大事だと思いますけど)、でも、技術だけでは音楽ではなくなってしまうような気がします。そもそも、音楽は作曲者が心を動かされ、それがメロディーとなって現れてきたものではないでしょうか。私自身、人の心を動かす力を持つ音楽に感動し、それを伝えたくて歌い手になったのです。秋のコンサートで私はそれをどれだけ伝えることができるのでしょうか。
乞うご期待です。
高山圭子(アルト)
私のヴァイオリン・メモ(3)『失われしヴァイオリン』
だいぶ昔の話になりますが、カーネギーホールの楽屋から、フーベルマンのストラディヴァリウスが盗まれた、という話が大々的にマスコミに取り上げられた事がありました。事件がもうすっかり忘れ去られた頃、ある老婦人が、「このヴァイオリンが、フーベルマン・ストラドなのでは?」と名乗り出て、この盗難事件は何十年ぶりに解決したのでした。
その婦人が言うのには、「私の夫はヴァイオリニストでした。そして彼は大統領のパーティー等でも奏くような一流の腕を持っていました。ところが彼が死の床についたとき、私にこう言ったのです。
『あのヴァイオリンは何とかしなければ!』
そしてなおもそのヴァイオリンについてこう話したのです。
『私のある友人が、みすぼらしい格好で私の職場に訪ねてきて、<どうしても百ドルで買って欲しい>とすがりつかんばかりに言ったんだ。私はそのヴァイオリン・ケースを開けて、ちょっと見ただけで、このヴァイオリンはただのヴァイオリンではない、とすぐに気づいたので、そう言おうとすると、その友人は、シーッ、と唇に手を当てると、私の手から百ドルを奪い取って、その場から消えたんだ!』と言うのです。
私は、夫に聞きました。『その人の名は何と言うの? お歳は? 人相と特徴は?』と、私は夫を質問攻めにしました。すると夫は私の質問に答えたわけですが、その人相や特徴が、まるで、なんと夫そっくりなんです……。」
でもこれはちょっといいお話でしょう。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
最近私は、専らドイツ歌曲をレパートリーとして歌っていますが、そこには私の先生の存在がなければありえないことでした。私の先生は、スイス人のバーゼル音大の先生だった方ですが、私はこの先生に出会ってから音楽の楽しさ、素晴らしさ、歌う事の喜びを感じることが出来るようになりました。
それまでは、「練習しなくてはいけない、歌わなくてはいけない」だった私の歌が、練習したい、歌いたいに変わったのです。(もちろん、練習したくない時は今でもありますが・・・)他の人にとってはどうかわかりませんが、私にとっては、先生は人生にとっての救世主とでも言いましょうか、そのくらい偉大な方なのです。その先生と出会わなければ、私は音楽をやめていたかもしれないですね。
もちろん音楽だけではないと思いますが、人生というのは、出会いによって大きく変わるものですね。私は幸いにも素敵な人達に出会う事ができて本当に感謝です。
話は変わりますが、私は飛行機が嫌いで、日本からヨーロッパへ行く時はあきらめますが、大陸続きのところはほとんど電車で移動をしています。飛行機嫌いと言えば思い出すのはチェチーリア・バルトリ。彼女はあまりの飛行機嫌いのため、日本にもなかなか来ることが出来ないようで、今年の日本公演も13年ぶりとか。ちなみに彼女は、先生の息子さんでチューリヒ歌劇場を拠点に世界で活躍するバリトン歌手の、奥様でもあります。
高山圭子(アルト)
私のヴァイオリン・メモ(2)
ストラディヴァリウスの本当のゴールデン・ピリオド(黄金期)とは?
一般的に言われているストラディヴァリウスの製作年代は———
最初期(一六七九〜一六八九年)アマティから独立し、自分の型を確立した時期で、一六八〇年以後が特に良いと言われています。
ロング・パターンの時期(一六九〇〜一六九九年)胴体の長さが約八ミリ長くなり、ブレッシア派の影響を強く受けた時期。
ゴールデン・ピリオド・黄金期(一七〇〇〜一七一六年)アマティのグランド・パターンを改良したもので、この時期の代表作には『メシア』があります。
円熟期(一七一七〜一七二八年)カルロ・ベルゴンツィをはじめとする十名前後の弟子を抱えていた時期で、かなりの量産をしていたと考えられます。
老年期(一七二九〜一七三七年)
———私はこの老年期と云われる時期こそが、あるいは本当のゴールデン・ピリオドなのではないか、と考えています。確かに工作技術は多少なりとも衰えを見せてはいますが、この時期には二人の息子をのぞいては、ほとんどの弟子が彼の下を去り、ほとんどの作業を一人で行ったと思われます。そして、この時期の作品は、ともかく音が素晴らしいのです。
その証明として、以下に述べる名演奏家がこの時期の作品を愛奏しています。
クライスラー 一七三四年と一七三三年。
ハイフェッツ 一七三三年の作品をクライスラーから譲り受けた。尚、彼は一七三四年の作品を持っていた。
メニューヒン 一七三三年。
ジンバリスト 一七三三年。
フーベルマン 一七三四年。
これだけのそうそうたる世界的名ヴァイオリニスト達は、いつでも彼らが望さえすれば、一七〇〇〜一七一六年のイワユル」ゴールデン・ピリオドの作品を手に入れることのできる立場にあったのですが、彼らは揃いも揃って、老年期の作品を最上のものとしたのです。
故に私は、本当の黄金期は、最晩年にあったのかもしれない、という仮説をもつのです。尚、製作者からの立場で云わせていただけるとしますなら、何年〜何年という線で区切ったような時期なるものが存在するとは決して思えないのです。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
前回ウィーンの話が出たので、ウィーンと言えばと、私がどうしても話しておきたい方のことをこの場を借りてお話しさせていただきたいと思います。
私には、初めてウィーンに行った時からずっとお世話になっている方がいます。ウィーンに留学したことのある方なら知らない人はいないというくらい有名な台湾人の方で、みんなから”お母さん”と呼ばれています。お母さんは日本語が上手で、ウィーンで“弁慶”という日本食レストランとペンションを経営しています。
それこそ今をときめくたくさんの著名な音楽家の方たちが、お母さんのレストランへ足を運び、飢えをしのいでいたらしいです。私もその中の一人で、今でも、ヨーロッパに行った時は何の用もなくとも、ウィーンへ立ち寄り、お母さんの日本食を食べに行くのが習慣になっています。行くと必ず注文するのが、“鳥のから揚げ”と“餃子”そして、お母さんがいつもサービスしてくれる“味噌ズッぺ”(味噌汁の事です)。
日本ではありがたくもなんともないこの味噌汁が、外国では、感動を誘う食べ物になるのですから不思議です。そして、お母さんの独特の日本語。お母さんの口癖は、“確かにい〜”と“メイビー”。この言葉を聞くと、あー、ウィーンだなあ、と感じる私は変でしょうか?長く滞在していた事もありますが、ウィーンに着いた時は、家に着いたかのような安堵感があります。それはきっと、このいつも行くと笑顔で迎えてくれるウィーンのお母さんがいるからでしょうね。
高山圭子(アルト)
皆さまこんにちは(^-^)
仙台に引越しをして早くも6ヶ月目ですが、仙フィルでの毎日は活気があり、充実しているのもあって、すっかり仙台が好きになりました。
この素晴らしい音楽祭が催されることを大変嬉しく思い感謝しています。
演奏会で皆さんにお会いできること、多くの素晴らしいアーティストを聴き歩けるのが待ち遠しいのですが、今回せんくらブログに載せて頂けるということで、現在ストラディヴァリウスを貸与してくださっている中澤宗幸さん(アルテ工房)のコラムをご紹介したいと思います。ウィーンに日帰りで行ってしまうような活力のあるユニークな方で、先日モーツァルト協奏曲全集のCDを発売されたヴァイオリニストの中澤きみ子さん(師匠)と共に、私にとって中澤ご夫妻は親の様な存在です。ヴァイオリン弾きには心が満たされる楽器を持つことは非常に難しく、知れば知るほど魅力的で奥が深い世界ですので、このコラムを楽しんで頂ければ嬉しいです。
伝田正秀
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私のヴァイオリン・メモ(1)『楽器のロールス・ロイス』
ストラディヴァリ作のヴァイオリンをたとえて言えば、———
車なら『ロールス・ロイス』、宝石なら何十カラットもするような『ダイヤモンド』、近代絵画で言えば『ゴッホ』とでもいうしかありませんが、ともかく楽器の分野における『帝王』といっても過言ではありません。
ストラディヴァリは、一六六四年に生まれ、十三歳で当時の名工といわれたニコラ・アマティに入門し、二十三歳で独立。この時ストラディヴァリは、すでに彼の師であるニコラ・アマティをも凌ぐ力量をもつにおよび、九十三歳で没するまで、名器を作り続けた名工中の名工で、まさしく『ザ・キング・オブ・ヴァイオリン』の名に恥じない人物でした。
現在、世界的に高名なヴァイオリニストは、ほとんどがストラディヴァリを愛奏し、持つことを夢見ております。さらに、ストラディヴァリは、年々価格が跳ね上がるので、インフレ・ヘッジとしてコレクターの興味を引きつけております。
ストラディヴァリの作品にニック・ネームがついているのは、その多くが十九世紀のヴァイオリン・ディーラーが名付けたか、あるいは過去の持ち主の名を取ったものであります。
ストラディヴァリの同時代の名工をもう一人あげるとすれば、グァルネリ・デル・ジェスという製作家がおります。『ストラド』か『デル・ジェス』か、ということになれば、その音質は対照的であり、優劣つけ難く、個人の好みということになりましょう。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
初めまして、アルトの高山圭子と申します。
この度仙台クラシックフェスティバルに出演させていただくことになりまして、本当に嬉しく、楽しみにしています。これを機会に是非高山圭子の名前を覚えていただきたいな、と思います。
今回はバヤン奏者のアレクサンダー・シェブチェンコさんとピアニストの石川祐介さんと共演させていただくリーダーアーベントと、第九でのアルトソロを担当させていただきます。素晴らしい共演者の皆さんとご一緒できる事を本当に感謝しています。
ウクライナ出身のバヤン奏者、アレクサンダーさんとは今回で4回目の共演となります。彼との出会いは、留学先のウィーンで、たまたま私がアレクサンダーさんの演奏を聴く機会がありまして、そのときに、「なんてすごい楽器なんだろう!!!」と感激したところから始まります。そのとき私はアレクサンダーさんの”手”にオーラを見たのです。それまで、聴いたことも見たこともなかったその楽器に魅了されたのです!
アコーディオンというと、なんとなく民謡なんかには合う素朴な楽器というようなイメージがあったのですが、私が聴いたのは、それとは違うまるでパイプオルガンのような音色、そして時にはオーケストラのようにも聞えてくる、なんて不思議な楽器なんだ!と、そして聴いてるうちに、いつかこの人と一緒に演奏をしたいと思うようになりました。
それから数年が経ち、いろんな縁が重なって、夢が叶いました。それ以来何度か共演させて頂いて、今回このような素晴らしい機会を与えていたことに、目には見えない縁のようなものを感じます。
いつもはピアノで演奏している曲をバヤンの演奏で歌います。自分で言うのも何ですが、なかなか素敵だと思います。是非アルトとバヤンという異色コンビですが、遊びに来てみてください。もちろん素晴らしい石川さんのピアノもお楽しみに!!
高山圭子(アルト)
先日、ある天才即興ピアニストのライヴに行ってきました。場所は、ギャラリー&ライヴカフェといったらよいのでしょうか。地下にでもあるのかな?と想像していたら、ごく普通の道路に面して、飛び込みでもふらっと気軽に入れそうな雰囲気。ちょっと遅れて入ったのですが、ライヴはまだ始まっておらず、お客様はすでにお酒を飲みながらリラックス。出演アーティスト本人も、そのなかに自然に混じって談笑しています。しばらくすると彼は、これまたごく自然にピアノの前に座り、弾き始めは音を探すように、それから気持ちのままに、音楽の糸を紡ぎだしました。
そのインプロヴィゼーションは素晴らしく、自分のなかから音楽を発しているようでいて、その場に流れる「気」とも常に交信している感じ、その交信によってまた音楽が触発され、満ちたり、ひいたり、またうねったり。そのグルーヴが、なんとも気持ちよいナチュラル・ハイを誘うのでした。
実は、クラシック音楽の舞台でも似たようなことがいえるんです。普段の何十倍も神経が敏感になっている状態のステージ上の奏者には、お客様からの「気」はびんびん届きます。自分が奏でている音楽に集中している状態にあっても、お客様と自分とのあいだに流れている「気」というのは、身体で(第六感で)感じられるものです。そしてこの“気のキャッチボール”がうまくいったとき、自分が意識して仕掛けたというのではない、なにかがのりうつったような演奏になることがあります。そんなことが起きるから、ステージはやめられないのですね。
彼の場合、なにしろ即興で音楽を誕生させて命を吹き込んでいくのだから、ものすごいエネルギーが放出されるわけです。そして生(なま)の音楽というのは、生まれたそばから消えていってしまうもの。そのとき居合わせた人間だけしか味わえない、まさに一期一会の音体験・・・刹那的かと思いきや、そんなたった一度きりの音が、一生、心のなかに刻まれたりする。不思議ですね。
この日のライヴは、私のモーツァルトにも何かのヒントを与えてくれそうです。思えばモーツァルトその人だって、よくこんな風に、即興で音楽していたに違いないのだもの!
楽器の状態、その日の天気、自分の心境、お客様の層などの様々な要素で、同じ曲でも二度と“同じ演奏”にはなり得ない、それがライヴの醍醐味。皆さんと「せんくら」で、ライヴの楽しさをともに感じることができたら、とても嬉しいです。
それではまた、仙台でお会いしましょう!一週間おつきあいくださり、どうもありがとうございました。〔今日の写真は、林喜代種さん撮影。〕
下山静香(ピアノ)