仙台フィルハーモニーの野崎さんからSOSが入りまして(?)、代わって1回だけ仙台フィルのPRブログを書きます。といっても私、5月10日の「オーケストラって不思議」というブログの中で、すでにいろいろ書いておりますので、今回は別の観点から。
仙台フィルはここ数年とみにうまくなったと言われております。特に中央の評価が高くなったのは、99年と2000年の支倉常長オペラ「遠い帆」の上演で、三善晃ワールドを遺憾なく発揮したことが大きかったのではないでしょうか。支倉オペラは詩人の高橋睦郎さん台本で、三善さん作曲という異色の組み合わせに加え、何より三善さんが作曲した初めてのオペラということもあり、日本音楽史上画期的な出来事としてとらえられました。会場となった宮城県民会館と仙台市青年文化センター、東京文化会館、世田谷パブリックシアターにはこの上演を心待ちにしていたファンが溢れ、特に中央のファンや、音楽評論家の方々からは「仙台フィルの演奏は素晴らしい」という声があがったものです。仙台国際音楽コンクールのホストオーケストラとしての演奏ぶりも全国評価に拍車をかけました。
音楽の友社によるクラシック人気ランキング調査によると、国内オーケストラ人気No1は世界のN響、仙台フィルは15番目にランクされています。私は、これはいわゆる地方オーケストラとしては大健闘だと考えています。何しろ組織が財団法人化したのは92年のことなのですから。まだまだ若いこれからのオーケストラなのです。
仙台フィルが確実に実力をつけ、定期演奏会にも多くのファンが足を運ぶようになった背景はいろいろあるでしょうが、忘れてはならないのが定期演奏会を2日制にしているということです。仙台フィルのフランチャイズは仙台クラシックフェスティバルのメイン会場となる仙台市青年文化センターのコンサートホールですが、ここは座席数が802席と中規模ホールです。仙台フィルは現在年間9回の定期演奏会を行っていますが、802席では聴衆を収容しきれないため、いずれの定期演奏会も2日間ずつ行っております。実はこの緊張を強いられる本番を2日間ずつこなすということがレベルアップにつながり、聴衆の側にも聴く日時をチョイスできるという相乗効果を生んでいます。
2000年の仙台フィルヨーロッパ公演には私も同行いたしましたが、聴衆の方々はもちろん、いずれの国のメディアにもあたたかく迎えていただきました。そんな仙台市民の誇りでもあるオーケストラが、精一杯の演奏で皆様をあたたかくお迎えさせていただきたいと思っております。何しろ今フェスティバルの主催者の一人なのですから。
仙台市市民文化事業団事業課長 佐藤憲男(さとう・のりお)
朝6時起床。6時半出勤。早い。眠い!
100km以上離れた音楽大学で9時にレッスンを約束しているからだ。首都高速という難関を越えるには100km走るのに2時間半は読まなければならない。
12時半までその音大で頑張り、午後2時半に授業が始まる都内の音大付属高校へ向かう。4時半までのオーケストラの授業に参加して、その後は5時に約束した大学の方へ。7時近くまで一緒に勉強して、さて、それから、仙台へ東北道をひた走る。スピード違反をしないように、でも11時までに仙台の拙宅にたどり着く。少々長い月曜日が暮れる。
仙台フィル:野崎明宏第2弾です。今回は「私の履歴書」(音楽編)を書きます。
初めて音楽に触れたのは、幼稚園時代に母親に言われて「ヤマハ音楽教室」でオルガンを習い始めた時ですから、4歳でしょうか。足踏みだったか、すでに電気オルガンだったか、思い出せませんが、小学校2年生の時に家に「アップライト・ピアノ」と言うとても大きな荷物が運ばれて来ました。
とは言え、単純な「ハノン」の練習が好きでもなく、「楽譜カード」と言うのを渡されて「ツェー」とか「ベー」と言わされるのがとても苦痛だったので、レッスンに行くふりをして学校でサッカーをしていました。当然、すぐにバレて母親に怒られ、ピアノは小学校の途中でやめてしまいました。つまり、最初の「音楽」との出会いは不幸でした。
中学に入ると、楽譜が読めると言うことでブラスバンド部に無理やり引きずり込まれ、「ホルン」を無理やり渡されましたが、行進曲ではメロディがほとんど無い楽器なので、つまらなくなりかけた頃にトランペットに変わり、とても楽しくなりました。その先生は、最近亡くなられた宮川泰先生と同時期に大学でジャズを演っていたらしいのですが、今では考えられないことに、夜になると中学校の音楽室で街の音楽愛好家を集めて、歌謡曲を演奏して楽しんでいました。一度だけ、そのバンドに参加させてもらったのですが、大人になったような気分で嬉しかったのを覚えています。
「音楽はオモロイデ!」と、いつも酒で赤い顔をして笑っていた先生は、若くして肝臓がんで亡くなりました。それから40年ぐらいたった今でも音楽の仕事を続けていられるのは、「音楽の楽しさ」を教えてくれたその先生のお陰だと思っております。
その後色々な音楽体験をして、今はひとりでも多くの人に「音楽の楽しさ」を伝えるための環境作りに携わっていますが、今度はなかなか心から楽しむと言うことが出来なくなってしまいました。演奏を批判的に聴いたり、価値判断をしてしまうのは、一種の職業病でしょうか?
引退したら、大好きなオペラをいっぱい見たいと思っているのですが、その時に心から楽しめるかどうか、自信がありません。(悲しい・・・かも)
「せんくら」に来てくださる方には、心から楽しんで欲しいと思います。でも、客席で「演奏がうまく行ってくれ」と心の中で叫びながら、毎回胃が痛くなるほど緊張して聴いているおじさんもいます。(私です!)
仙台フィルハーモニー管弦楽団演奏事業部長 野崎明宏(のざき・あきひろ)
はじめまして。コントラバスの村上満志です。仙台フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者として活動する一方、東京都内をはじめとする音楽大学での講師としての活動などもあり、自宅のある千葉と仙台を“行ったり来たり”の生活を送っています。
ところで、突然ですが、コントラバスがチェロと同じ音符を見て音を出した時、実はチェロよりも1オクターヴ低い音を出していることをご存じでしたか?そんな楽器ですので、独奏する時は逆に普段オーケストラで演奏するよりも殆ど1オクターヴ高い音域を“行ったり来たり”する状態なんです。
なので、ソロをする時は、それなりに演奏する上での大変さもあるのですが、またコントラバスならではの味わいもあります。10月の「仙台クラシックフェスティバル」で、そのへんも聴いて頂ければと思っています。というわけで、今週は、そんな大きな楽器と自らも向き合い、若い人たちとも一緒に勉強している村上満志の一週間を紹介させてください。
仙台フィルハーモニー管弦楽団の演奏事業部長:野崎明宏です。「せんくら」ブログ初登場です。
実は、かなり前から仙台市市民文化事業団の丹野さんから書くようにと言われていて、『○日までに書きますから』とか『遅れていてスミマセン』とか言って逃げていたのですが、『本日24時までに』と言う最終通告(?)を受け、全ての仕事をストップして書きはじめました。
さて、いよいよサッカーの「ワールドカップ」が始まり、サッカー小僧の私としては、連日睡眠不足が続くことを覚悟しております。仙台フィルは「せんくら」に4公演出演するのですが、101回目つまり最後を飾る演奏会で行なう「アイーダ」凱旋の場のメロディはサッカー日本代表の応援歌に使われています。
と言うことで、フィギィア・スケートの荒川選手「トゥーランドット」の時のように「アイーダ」のCDが売れているかもと思い、アマゾンのクラシック・チャートを覗いてみました。『まだでした!』
しかしながら、6月21日発売予定の「ミオ・クラシコconducted by 宮本恒靖」と言うCDが第2位に入っているではありませんか! 宮本恒靖ってご存知ですよね?
サッカー日本代表ディフェンスの要、あの宮本選手です。CDはクラシック・ファンの彼が自ら選んだコンピ・アルバムですが、第1曲目はやはり「アイーダ」凱旋行進曲!
これを機会にまた、全国で「アイーダ」が広く知られるといいなと思います。「せんくら」は10月なので、少し時間がありますが、「生アイーダ」をその時まで楽しみにしておいて下さい。
それと、『みんなで日本代表を応援しましょう!』
【オマケ】「せんくら」では、この曲にしか使われない「アイーダ・トランペット」も使用する予定です。
仙台フィルハーモニー管弦楽団演奏事業部長 野崎明宏(のざき・あきひろ)
http://www.sendaiphil.jp/
ガルネリ・デル・ジェスの曾孫と一緒の中澤さん
私のヴァイオリン・メモ(7)
『アー・ユー・ドランク?』
『イエス・アイ・アム』
今や、ストラディヴァリウスをも凌ぐ人気を誇る、バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ、通称デル・ジェスのお話。
彼は一六九八年にイタリアのクレモナに生まれました。彼の存命中は、全くと言っていいほど評価されず、一七四四年失意のうちにこの世を去った名工でした。
彼は天才によくありがちな、非常に感情の起伏に富んだ人間で、酒浸りであったり、喧嘩をしてはそのあげくに投獄されたり、といった事を繰り返しました。後年彼が、デル・ジェスと呼ばれるようになったのは、彼の作品のレーベルと『IHS』というモノグラムを入れたためで、それは『救世主・イエス』を意味します。一説にこのレーベルの版木を作ってデル・ジェスに与えたのは、「自戒せよ」という思いをこめた、かのストラディヴァリであったとも言われています。
今思えば、大変もったいないことですが、彼の作品には、ずいぶんおかしなものもあって、ネックがねじれているものや、左右が非対称のものや、f字孔のおおきさの違ったもの等々があります。これらは、『ドランク(よっぱらい)・デル・ジェス』と言われているもので、彼が酒を飲みながら作ったものだろうと推定されているものです。また、『プリズン(監獄)・デル・ジェス』と呼ばれているものも残されていますが、これは獄中で暇つぶしに作ったものだろうと言われています。
こんなデル・ジェスにもゴールデン・ピリオドがあり、それは一七二九年、彼が三十一歳の時から死をむかえる前年までに制作したものです。ブレッシア派のガスパロ・ダ・サロの影響を強く受けたもので、あくまでも音量に重きを置いた作品でした。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
高山圭子さんに期待します!
高山圭子さんが、在仙音楽家の中から抜擢され、今般、仙台クラシックフェスティバルに出演されるとのこと、「熱狂的に」支持します。
高山さんは、誰をも魅了する声を持っています。まさに天性のものでしょうが、それに加えて熱心な精進の賜物であることも見逃すことはできません。
高山さんが「仙台バッハ・アカデミー」のクルト・ヴィトマー氏のマスタークラスに現れたのは、2000年頃でした。彼女はスイスバーゼル音楽院の看板教授ヴィトマー氏をウィーンのマスタークラスで知って、仙台のクラスにやってきたのです。その年以来、春秋年2回のマスタークラスを欠かさず受講するだけでなく、ファドゥーツ(リヒテンシュタイン)、ヴェルグル、リンツ(オーストリア)、南チロル(イタリア)、ハンブルグ(ドイツ)などのヴィトマー氏のマスタークラスを受講しながら研鑚を積んでいる様子には見事なものがあります。
その間に少しずつ活動のワクを広げ、メサイアや、第九をはじめ、マタイ受難曲やヨハネ受難曲(こちらはペルト作曲)などのオラトリオのソロでは、深い感動的な表現で聴くものを魅了しました。このように精進にいとまのない人ですが、一方では人懐っこく、気さくで彼女が友達になれないような人は誰もいないのではないかと思えるようなキャラクターの持ち主です。
今回もバヤンの名手シェヴチェンコ氏と共演しますが、彼との出会いも確かウィーンでの演奏会がきっかけで、その後何度か共演の音楽会が実現しました。声楽家としてやっていくには天性の声や音楽性があるだけでなく、たゆみない努力が生涯要求されます。
私は高山さんにそのような声楽の王道を、しかし高山さんらしさを堅持し、高めながら一歩一歩歩いていって欲しいと思っています。
全日本合唱連盟副理事長
仙台バッハ・アカデミー音楽監督
作曲家、合唱指揮者 今井邦男
私のヴァイオリン・メモ(6)『チェロ今昔物語』
今回はチェロのお話をしましょう。今では常識になっているチェロのエンド・ピンが楽器に取り付けられたのは、二十世紀になってからで、それまでは、ボッケリーニのバロック時代からヴィオラ・ダ・ガンバ同様、両足で楽器を挟みつけて奏かれていました。
その上、今にして思えば、全く滑稽な話ですが、左手を拡げないように、分厚い本を左の脇下に挟んで練習をしたというのです。
その理由というのが全く滑稽にも、オーケストラ・ピットの中で場所をとらないようにというのです。これを打ち破ったのが、かのチェロの神様たるパブロ・カザルスで、彼の登場以前は、チェロの独奏というもの自体がすたれておりました。
カザルスの功績で顕著なのは、それまで埋もれていたバッハ作品を掘り起こしたことにあります。それまでは、チェロに限らず音楽界全体が、バッハを忘れていたというのが実状でした。十九世紀末から二十世紀の初めまで、コンサートと言えば、ロマン派の作品に決まっていた、と言われています。
チェロの作家に言及すれば、ストラディヴァリは大きなサイズと小さなサイズの二通りのチェロを作りましたが、市場価格で見ると、ストラディヴァリの作品と肩を並べて彼の弟子であった、ドミニコ・モンタニアーナがヴェニスに移ってから作ったものが大変高価になっています。
ともかくヴァイオリンよりもチェロの古名器というものの絶対量が少なく、それは、ヨーロッパが幾たびの戦禍にみまわれたかを考えると自ずと分かることです。チェロを一台抱えて逃げまどうのがいかに大変なことか、お解りいただけると思います。ちなみに、ヴァイオリンなら、サムソナイトの大型スーツケースに六台は入るのですから、コントラバスの古名器がさらに少ない、ということは言うまでもありません。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸
初めまして。このフェスティバルにピアノで参加させて頂きます石川祐介です。
仙台市で、宮城県沖地震の前年に生まれ、高校まで仙台に住んでおりました。その後山形. フランスのパリ、富山と経まして現在は東京に住んでいます。改めて書いてみると色々な土地に住んだなぁ、と実感します。
全ての土地が良い思い出で、引越の度に出会う新しい環境が現在ある僕の音楽観に大きく影響したのだと確信しています。僕の場合、素晴らしい音楽から影響を受けることはもちろんですが、音楽以外のことからも大いに影響を受けるみたいです。それは日常生活であったり、風景、建築物、テレビ番組であったりゲームなど多種にわたります。
ある作品を演奏しているときに、「あ、なんかこの部分は!!」と思ったのが、 ファイナルファンタジーの とてもファンタジックな場面であったり、ある建築物の壮大さを真上から覗いていたり。日常で経験できないような空想じみたことを、音楽と照らせ合わせてイメージする傾向があるようです。軽い妄想癖なのでしょうか。いや、しかし、音楽には少なからずこういったことが必要であるのだ、と言い聞かせております。雑学、そしてイマジネーション。即ち引き出しの数が多ければ多いほど人生においても豊かになると思いますし、何より得だと思います。
さて、そうなるとどのような音楽につながるのか。
これは皆様がどのような耳で聴いてくださるかにかかっております。
では、10月のコンサートでは高山さんとどのようなイマジネーションを創造できるか、お楽しみに!!
ピアニスト石川祐介
私のヴァイオリン・メモ(5)『ヴァイオリニストは馬何頭?』
ルネッサンスからバロックへ、といったころのお話。当時の弦楽器の王様はまだ撥弦楽器(指などで弦をはじいて音を出す楽器)のリュート。弓で弾く擦弦楽器は搖籃期を迎えたばかりでした。
ルネッサンス・リュートは、通常一二弦六コース(各弦が二本ずつ一組で、ユニゾンかオクターヴに調弦されているもの)で、この頃は高音から低音まで全部の弦が羊腸弦(ガット)。この羊腸弦というしろもの、湿度の上がり下がりで、しょっちゅう狂ってばかり。その上当時はチューニング・ペッグ用の便利なスムーサーなどもなかったので、これは大げさでなく、三分くらいの小品を弾くのに、チューニングに三時間かかったといいます。
そして、やがて時代はバロック期。どうしたものか、ただでさえ弦の数が多くて困っていたのに、バロック・リュートという、気違いじみた?十コース二十弦だの、それ以上などといったものが出現したのです。おまけに、それを弾くリューティストなるものを、ステータス・シンボルとして召し抱えるのが各地の王侯貴族の間で流行しだしたのですからたまらない。このリューティストのお抱え費用が実に馬三頭分であったそうです。
さて、これを現代に置き換えてみたとして、大変失礼な例えですが、パールマン氏を抱えるには一体、馬(勿論サラブレッド?)何頭分になるのか、どなたか試算なさっていただけないでしょうか。
ま、今は、お抱えで一握りの人が楽しむのではなく、コンサート・ホールというものがあり、多くの人が一緒にパールマン氏やミドリ・ゴロー(編集部注:ミドリ・ゴトーが正解でした。打ち間違えお詫びいたします)嬢の演奏を楽しめるのですから、本当に良い時代ですね。
ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸