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SENCLA BLOG

ブログ

仙台フィルハーモニー管弦楽団
2006.06.14

2006年06月14日 

仙台フィルハーモニー管弦楽団では、毎年4月に「オーケストラと遊んじゃおう!」という、その名のとおり子どもたちがオーケストラと遊んでしまうことのできる演奏会を開催しています。毎回、楽団員の皆さん、オーケストラの事務局の皆さんが、打ち合わせを重ねて構成を吟味し作り上げるこの演奏会、5回目を迎えた今年は、着ぐるみで演技しながら演奏した方もいたりと、ますます楽しみが増えていました。

演奏の前には、楽団員の皆さんの指導のもと、楽器を鳴らしてみることができたり、楽器の音がでる仕組みを応用した手作り楽器を楽団員さんと一緒に作るコーナーなど、子どもたちが楽しみながらオーケストラと楽器に親しむ場がたくさん用意されています。そのなかでもうちの子どもたちが楽しみにしているのが打楽器コーナー。ティンパニなど、オーケストラに登場する楽器はもちろん、身近にあるものも楽器になるよ!ということで紹介されているお玉や何やらで、ガンガン音を鳴らすのが楽しいらしく、毎回、時間いっぱい遊んでいます。

そのなかでも今年のお気に入りは“ドラム”。といっても太鼓ではありません。通称電ドラ(=電工ドラム)、延長コードのごついのです。コードを巻くための取っ手を回すと、コードの代わりに付けられた板(?)の振動により音が鳴るというもの。あまりの意外性と面白さに、写真にまで収めた息子たちでしたが、こういったさまざまな工夫を凝らして楽器の魅力、オーケストラの魅力を伝えてくれようとしている楽団員の皆さんの、音楽への深い愛情が感じられる演奏会でもあります。

「せんくら」では、メンデルスゾーンの結婚行進曲などどこかで聴いたオーケストラの名曲、モーツァルトの名曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの第九...と、実にさまざまなプログラムを演奏してくれます。

3歳以上の方が入場できるコンサートですので、今年の「オーケストラと遊んじゃおう!」のチケットが買えなかった皆様、『オーケストラと遊んじゃおう!」が楽しかった皆様、「せんくら」の仙台フィルもぜひ楽しんでください。

仙台市市民文化事業団 丹野裕子(たんの・ゆうこ)

村上満志
2006.06.13

火曜日 

2週間後に発表会を控えた生徒さんと朝9時半に勉強開始。11時過ぎまで一緒に頑張って、いよいよ仙台フィルの練習へ。今日は今週末の定期演奏会のための練習初日。午後1時、音出し。終了予定は6時。

ゴッツァイダンク(ドイツ語”天の恵み”)。6時まで30分を残して練習終了。仙台にある企業の支店長の方々の集まり(金融経済懇話会)があり、仙台フィルの仲間と3名で駆けつける。話を交えて40分くらいのミニコンサート!話の内容はコンサート専用ホールの必要性。

仙台フィルハーモニー管弦楽団
2006.06.13

2006年06月13日 

仙台フィルハーモニーの野崎さんからSOSが入りまして(?)、代わって1回だけ仙台フィルのPRブログを書きます。といっても私、5月10日の「オーケストラって不思議」というブログの中で、すでにいろいろ書いておりますので、今回は別の観点から。

仙台フィルはここ数年とみにうまくなったと言われております。特に中央の評価が高くなったのは、99年と2000年の支倉常長オペラ「遠い帆」の上演で、三善晃ワールドを遺憾なく発揮したことが大きかったのではないでしょうか。支倉オペラは詩人の高橋睦郎さん台本で、三善さん作曲という異色の組み合わせに加え、何より三善さんが作曲した初めてのオペラということもあり、日本音楽史上画期的な出来事としてとらえられました。会場となった宮城県民会館と仙台市青年文化センター、東京文化会館、世田谷パブリックシアターにはこの上演を心待ちにしていたファンが溢れ、特に中央のファンや、音楽評論家の方々からは「仙台フィルの演奏は素晴らしい」という声があがったものです。仙台国際音楽コンクールのホストオーケストラとしての演奏ぶりも全国評価に拍車をかけました。

音楽の友社によるクラシック人気ランキング調査によると、国内オーケストラ人気No1は世界のN響、仙台フィルは15番目にランクされています。私は、これはいわゆる地方オーケストラとしては大健闘だと考えています。何しろ組織が財団法人化したのは92年のことなのですから。まだまだ若いこれからのオーケストラなのです。

仙台フィルが確実に実力をつけ、定期演奏会にも多くのファンが足を運ぶようになった背景はいろいろあるでしょうが、忘れてはならないのが定期演奏会を2日制にしているということです。仙台フィルのフランチャイズは仙台クラシックフェスティバルのメイン会場となる仙台市青年文化センターのコンサートホールですが、ここは座席数が802席と中規模ホールです。仙台フィルは現在年間9回の定期演奏会を行っていますが、802席では聴衆を収容しきれないため、いずれの定期演奏会も2日間ずつ行っております。実はこの緊張を強いられる本番を2日間ずつこなすということがレベルアップにつながり、聴衆の側にも聴く日時をチョイスできるという相乗効果を生んでいます。

2000年の仙台フィルヨーロッパ公演には私も同行いたしましたが、聴衆の方々はもちろん、いずれの国のメディアにもあたたかく迎えていただきました。そんな仙台市民の誇りでもあるオーケストラが、精一杯の演奏で皆様をあたたかくお迎えさせていただきたいと思っております。何しろ今フェスティバルの主催者の一人なのですから。

仙台市市民文化事業団事業課長 佐藤憲男(さとう・のりお)

村上満志
2006.06.12

月曜日 

朝6時起床。6時半出勤。早い。眠い!

100km以上離れた音楽大学で9時にレッスンを約束しているからだ。首都高速という難関を越えるには100km走るのに2時間半は読まなければならない。

12時半までその音大で頑張り、午後2時半に授業が始まる都内の音大付属高校へ向かう。4時半までのオーケストラの授業に参加して、その後は5時に約束した大学の方へ。7時近くまで一緒に勉強して、さて、それから、仙台へ東北道をひた走る。スピード違反をしないように、でも11時までに仙台の拙宅にたどり着く。少々長い月曜日が暮れる。

仙台フィルハーモニー管弦楽団
2006.06.12

2006年06月12日 

仙台フィル:野崎明宏第2弾です。今回は「私の履歴書」(音楽編)を書きます。

初めて音楽に触れたのは、幼稚園時代に母親に言われて「ヤマハ音楽教室」でオルガンを習い始めた時ですから、4歳でしょうか。足踏みだったか、すでに電気オルガンだったか、思い出せませんが、小学校2年生の時に家に「アップライト・ピアノ」と言うとても大きな荷物が運ばれて来ました。

とは言え、単純な「ハノン」の練習が好きでもなく、「楽譜カード」と言うのを渡されて「ツェー」とか「ベー」と言わされるのがとても苦痛だったので、レッスンに行くふりをして学校でサッカーをしていました。当然、すぐにバレて母親に怒られ、ピアノは小学校の途中でやめてしまいました。つまり、最初の「音楽」との出会いは不幸でした。

中学に入ると、楽譜が読めると言うことでブラスバンド部に無理やり引きずり込まれ、「ホルン」を無理やり渡されましたが、行進曲ではメロディがほとんど無い楽器なので、つまらなくなりかけた頃にトランペットに変わり、とても楽しくなりました。その先生は、最近亡くなられた宮川泰先生と同時期に大学でジャズを演っていたらしいのですが、今では考えられないことに、夜になると中学校の音楽室で街の音楽愛好家を集めて、歌謡曲を演奏して楽しんでいました。一度だけ、そのバンドに参加させてもらったのですが、大人になったような気分で嬉しかったのを覚えています。

「音楽はオモロイデ!」と、いつも酒で赤い顔をして笑っていた先生は、若くして肝臓がんで亡くなりました。それから40年ぐらいたった今でも音楽の仕事を続けていられるのは、「音楽の楽しさ」を教えてくれたその先生のお陰だと思っております。

その後色々な音楽体験をして、今はひとりでも多くの人に「音楽の楽しさ」を伝えるための環境作りに携わっていますが、今度はなかなか心から楽しむと言うことが出来なくなってしまいました。演奏を批判的に聴いたり、価値判断をしてしまうのは、一種の職業病でしょうか?

引退したら、大好きなオペラをいっぱい見たいと思っているのですが、その時に心から楽しめるかどうか、自信がありません。(悲しい・・・かも)

「せんくら」に来てくださる方には、心から楽しんで欲しいと思います。でも、客席で「演奏がうまく行ってくれ」と心の中で叫びながら、毎回胃が痛くなるほど緊張して聴いているおじさんもいます。(私です!)

仙台フィルハーモニー管弦楽団演奏事業部長 野崎明宏(のざき・あきひろ)

http://www.sendaiphil.jp/

村上満志
2006.06.11

2006年06月11日

はじめまして。コントラバスの村上満志です。仙台フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者として活動する一方、東京都内をはじめとする音楽大学での講師としての活動などもあり、自宅のある千葉と仙台を“行ったり来たり”の生活を送っています。

ところで、突然ですが、コントラバスがチェロと同じ音符を見て音を出した時、実はチェロよりも1オクターヴ低い音を出していることをご存じでしたか?そんな楽器ですので、独奏する時は逆に普段オーケストラで演奏するよりも殆ど1オクターヴ高い音域を“行ったり来たり”する状態なんです。

なので、ソロをする時は、それなりに演奏する上での大変さもあるのですが、またコントラバスならではの味わいもあります。10月の「仙台クラシックフェスティバル」で、そのへんも聴いて頂ければと思っています。というわけで、今週は、そんな大きな楽器と自らも向き合い、若い人たちとも一緒に勉強している村上満志の一週間を紹介させてください。

仙台フィルハーモニー管弦楽団
2006.06.11

2006年06月11日 

仙台フィルハーモニー管弦楽団の演奏事業部長:野崎明宏です。「せんくら」ブログ初登場です。

実は、かなり前から仙台市市民文化事業団の丹野さんから書くようにと言われていて、『○日までに書きますから』とか『遅れていてスミマセン』とか言って逃げていたのですが、『本日24時までに』と言う最終通告(?)を受け、全ての仕事をストップして書きはじめました。

さて、いよいよサッカーの「ワールドカップ」が始まり、サッカー小僧の私としては、連日睡眠不足が続くことを覚悟しております。仙台フィルは「せんくら」に4公演出演するのですが、101回目つまり最後を飾る演奏会で行なう「アイーダ」凱旋の場のメロディはサッカー日本代表の応援歌に使われています。

と言うことで、フィギィア・スケートの荒川選手「トゥーランドット」の時のように「アイーダ」のCDが売れているかもと思い、アマゾンのクラシック・チャートを覗いてみました。『まだでした!』

しかしながら、6月21日発売予定の「ミオ・クラシコconducted by 宮本恒靖」と言うCDが第2位に入っているではありませんか! 宮本恒靖ってご存知ですよね?
サッカー日本代表ディフェンスの要、あの宮本選手です。CDはクラシック・ファンの彼が自ら選んだコンピ・アルバムですが、第1曲目はやはり「アイーダ」凱旋行進曲!

これを機会にまた、全国で「アイーダ」が広く知られるといいなと思います。「せんくら」は10月なので、少し時間がありますが、「生アイーダ」をその時まで楽しみにしておいて下さい。

それと、『みんなで日本代表を応援しましょう!』

【オマケ】「せんくら」では、この曲にしか使われない「アイーダ・トランペット」も使用する予定です。

仙台フィルハーモニー管弦楽団演奏事業部長 野崎明宏(のざき・あきひろ)
http://www.sendaiphil.jp/

伝田正秀
2006.06.10

2006年06月10日 

ガルネリ・デル・ジェスの曾孫と一緒の中澤さん

私のヴァイオリン・メモ(7)
『アー・ユー・ドランク?』
『イエス・アイ・アム』

今や、ストラディヴァリウスをも凌ぐ人気を誇る、バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ、通称デル・ジェスのお話。

彼は一六九八年にイタリアのクレモナに生まれました。彼の存命中は、全くと言っていいほど評価されず、一七四四年失意のうちにこの世を去った名工でした。

彼は天才によくありがちな、非常に感情の起伏に富んだ人間で、酒浸りであったり、喧嘩をしてはそのあげくに投獄されたり、といった事を繰り返しました。後年彼が、デル・ジェスと呼ばれるようになったのは、彼の作品のレーベルと『IHS』というモノグラムを入れたためで、それは『救世主・イエス』を意味します。一説にこのレーベルの版木を作ってデル・ジェスに与えたのは、「自戒せよ」という思いをこめた、かのストラディヴァリであったとも言われています。

今思えば、大変もったいないことですが、彼の作品には、ずいぶんおかしなものもあって、ネックがねじれているものや、左右が非対称のものや、f字孔のおおきさの違ったもの等々があります。これらは、『ドランク(よっぱらい)・デル・ジェス』と言われているもので、彼が酒を飲みながら作ったものだろうと推定されているものです。また、『プリズン(監獄)・デル・ジェス』と呼ばれているものも残されていますが、これは獄中で暇つぶしに作ったものだろうと言われています。

こんなデル・ジェスにもゴールデン・ピリオドがあり、それは一七二九年、彼が三十一歳の時から死をむかえる前年までに制作したものです。ブレッシア派のガスパロ・ダ・サロの影響を強く受けたもので、あくまでも音量に重きを置いた作品でした。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

高山圭子
2006.06.10

2006年06月10日 

高山圭子さんに期待します!

高山圭子さんが、在仙音楽家の中から抜擢され、今般、仙台クラシックフェスティバルに出演されるとのこと、「熱狂的に」支持します。

高山さんは、誰をも魅了する声を持っています。まさに天性のものでしょうが、それに加えて熱心な精進の賜物であることも見逃すことはできません。

高山さんが「仙台バッハ・アカデミー」のクルト・ヴィトマー氏のマスタークラスに現れたのは、2000年頃でした。彼女はスイスバーゼル音楽院の看板教授ヴィトマー氏をウィーンのマスタークラスで知って、仙台のクラスにやってきたのです。その年以来、春秋年2回のマスタークラスを欠かさず受講するだけでなく、ファドゥーツ(リヒテンシュタイン)、ヴェルグル、リンツ(オーストリア)、南チロル(イタリア)、ハンブルグ(ドイツ)などのヴィトマー氏のマスタークラスを受講しながら研鑚を積んでいる様子には見事なものがあります。

その間に少しずつ活動のワクを広げ、メサイアや、第九をはじめ、マタイ受難曲やヨハネ受難曲(こちらはペルト作曲)などのオラトリオのソロでは、深い感動的な表現で聴くものを魅了しました。このように精進にいとまのない人ですが、一方では人懐っこく、気さくで彼女が友達になれないような人は誰もいないのではないかと思えるようなキャラクターの持ち主です。

今回もバヤンの名手シェヴチェンコ氏と共演しますが、彼との出会いも確かウィーンでの演奏会がきっかけで、その後何度か共演の音楽会が実現しました。声楽家としてやっていくには天性の声や音楽性があるだけでなく、たゆみない努力が生涯要求されます。

私は高山さんにそのような声楽の王道を、しかし高山さんらしさを堅持し、高めながら一歩一歩歩いていって欲しいと思っています。

全日本合唱連盟副理事長

仙台バッハ・アカデミー音楽監督
作曲家、合唱指揮者 今井邦男

 

伝田正秀
2006.06.09

2006年06月09日 

私のヴァイオリン・メモ(6)『チェロ今昔物語』

今回はチェロのお話をしましょう。今では常識になっているチェロのエンド・ピンが楽器に取り付けられたのは、二十世紀になってからで、それまでは、ボッケリーニのバロック時代からヴィオラ・ダ・ガンバ同様、両足で楽器を挟みつけて奏かれていました。

その上、今にして思えば、全く滑稽な話ですが、左手を拡げないように、分厚い本を左の脇下に挟んで練習をしたというのです。

その理由というのが全く滑稽にも、オーケストラ・ピットの中で場所をとらないようにというのです。これを打ち破ったのが、かのチェロの神様たるパブロ・カザルスで、彼の登場以前は、チェロの独奏というもの自体がすたれておりました。

カザルスの功績で顕著なのは、それまで埋もれていたバッハ作品を掘り起こしたことにあります。それまでは、チェロに限らず音楽界全体が、バッハを忘れていたというのが実状でした。十九世紀末から二十世紀の初めまで、コンサートと言えば、ロマン派の作品に決まっていた、と言われています。

チェロの作家に言及すれば、ストラディヴァリは大きなサイズと小さなサイズの二通りのチェロを作りましたが、市場価格で見ると、ストラディヴァリの作品と肩を並べて彼の弟子であった、ドミニコ・モンタニアーナがヴェニスに移ってから作ったものが大変高価になっています。

ともかくヴァイオリンよりもチェロの古名器というものの絶対量が少なく、それは、ヨーロッパが幾たびの戦禍にみまわれたかを考えると自ずと分かることです。チェロを一台抱えて逃げまどうのがいかに大変なことか、お解りいただけると思います。ちなみに、ヴァイオリンなら、サムソナイトの大型スーツケースに六台は入るのですから、コントラバスの古名器がさらに少ない、ということは言うまでもありません。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

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