いよいよ本番。
いらして下さったお客様には、楽しんでいただけたコンサートになったと思う。
勿論、バンダの生徒さん達の演奏は素晴らしく、何といってもそのひたむきさに感動。
演奏後のカーテンコールの時の、彼らの顔は輝いていた。またそれを見守る仙台フィルのメンバーの笑顔を見たとき、この場に居られる幸せをしみじみと感じた。
いよいよ「せんくら」が始まるまで1週間を切りました。
3日間という短い期間ではありますが、皆さんとわれわれ演奏家、または作品との新しい出会いが数多く生まれることでしょう。
この新しい出会いが、どのように発展していくか。
「せんくら」は、とてつもなく大きな可能性を秘めているし、これからの仙台の音楽界の未来の一翼を確実に担っていく催しとして、全国にも誇れるものであると思います。
心より皆さんの応援をお願いします。
山下一史(指揮)
♯Nowhereという名前の少年がグラウンドに横たわる。
太陽からやって来て、この惑星に降り立った。
僕の目の前でスキップして、恥ずかしがり屋の鷲の飛翔を覗き見る。
他の人には夏が訪れた、怠けものの雲、ゆらゆら揺れる側溝。
飛騨古川音楽賞、紅白の大きなリボンを胸につけて、Toru Takemitsuさんからいただいた大切な賞。
Maestro Seiji Ozawaさんとはボストンでもなぜか日本式にお辞儀。
誰も言ってくれないから自分で言うってかぁ そうはイカの天ぷらよ。
でも本当に一人前なんかにはまだまだだと思うのは、例えばピエール=ロラン・エマールの演奏を聴く時。
それはもう音楽をはるかに超えた宇宙の真実 無限の哲学みたいな うまく言えないけど、彼の音楽会はもう音楽だけの音楽会ではない もっと先 もっとずう~っと先にある何かを教えてくれる。
音を重ねれば音楽になる、と言ったのは誰だっけ。
とんでもないね。音が無くても音楽はある。音だけなら音だけなんです。
リヨンでの共演後 エマールのご実家ご両親と
原田節(オンド・マルトノ)
胆沢でのリハーサル。
「1812年」の最後の部分を地元の中学生のバンドのメンバーがバンダとして参加してくれているので、彼らとの合わせが最大の目的。
9月14日に前もって胆沢に伺ってリハーサルを行っているが、オーケストラと合わせるのは今日が初めてで、みんな緊張の面持ち。
まず、舞台両袖の花道に並んだ彼らの中に仙台フィルのメンバーに入ってもらって、バンダの部分を一緒に演奏する。これは効果てきめんで、プロの「音」に合わせて吹いて感覚を掴む。
山下一史(指揮)
♯君が去って行ってしまってから、僕はベッドでひとりぼっち。
愛するひとと君は野原を駆け回っている。
僕は少しびっくりして、君が残してくれたメッセージを心に留めている。
この生命で、そしてまた別の生命で、もう一つの生命、いや全ての生命で、海から生まれた雨粒がふたたび海に降り注ぐように。
僕はベッドでさみしい思いをしているけれど、それは誰にでも平等な事
来るもの、去るもの、皆な空で歌っている。
もう僕は以前のように若くはないけれど、ずっと自分が天国にいたことをわからなかったなんて、まったく愚かだったよ。
そして例外なく心は新しくなり過去を消し去っていく。
幸せはいつだって自分の側にあるんだ。
この人生だけでなくまた別の人生で
君の選択は成された 永遠に僕らはこの歌を空で歌う。
にほん というやさしい響きが私はとても好きだ。
誰から強制されたのか、前後の流れを無視して無理矢理、ニッポン と発音しようとすれば、どうしても言葉は澱み、美しさは重たい鎧に引き千切られ、結局文章全体の意味は通じなくなる。
もちろん大阪の日本橋が ニッポンバシであるように、
文化を背負って故の発音は大歓迎。
そこにはちゃんと美意識が働いているからである。
にほんでオンド・マルトノ六重奏
原田節(オンド・マルトノ)
26日の胆沢でのコンサートの為の仙台フィルのリハーサル。
11月公開の映画「剣岳」のサウンドトラックを担当したのは、なんと仙台フィル。
その中から、池辺晋一郎さんが編曲した、バッハの「幻想曲」、ヘンデルの「サラバンド」、
伝田君ソロによる「四季」から「冬」、西沢君のソロでマルチェッロのオーボエ協奏曲。
後半はチャイコフスキーの「眠りの森の美女」「1812年」という盛沢山なプロ。
夜は、仙台ジュニアオーケストラのリハーサル。
8月の合宿以来だったが、皆な格段の進歩。仙台フィルの講師の面々に感謝しきり。
この分なら、11月1日の20周年記念演奏会は大成功間違いなし。
山下一史(指揮)
ニューヨークの朝はコーヒーで始まる。
私の朝はウォーキングからはじまる。
小学校の運動会徒競走5人で走り、先頭の二人がぶつかってころげてしまい堂々の三位入賞が最高。
自分は運動が苦手という潜在意識をずっと植え付けられていたのかもしれない。
学生の頃、夏のある晴れた日、バスケットボールのコーチをなさっている方が素足にスニーカーの僕のくるぶしを見て、「あっハラダ君 足速いでしょ」とおっしゃった。
まさかで、上のエピソードを申し上げたら、「それは残念、今からでも訓練すればぁ、絶対君は運動神経いいよ」とおっしゃってくださいました。
子供は誉めて育てましょう。never too late@子供
もう遠い日の話しでもちろんな~んにも始めずに日々の泡をつぶしていたわけ。
放っておくと 一日一歩も外に出ない事も珍しくない=私の場合で、
さすがにこれではまっタコイカんと歩く事を始めた。
夜のしじまが溶け出す頃の猫さんたちの集会に参加させてもらったり、
若い頃にはあんなに抵抗していた神社巡りも 結構目標として重宝したり、あまり何分とか何キロとか決め付けず、無理なくよどみの無い朝の空気を楽しんでいるのですが。
うむむ これはな・なんだ?
種明かしはまた明日。
ちなみに冒頭の曲タイトルは 起き抜けのベッドに出来た窪みに飛び乗ってきて、真ん丸まるまって寝ようとする愛猫のお話しです。
余計な想像しないでくださいね 彼女は今は静かに庭の片隅で眠っています
ニューヨークの夜はブロードウェイのミュージカルで更けていく
原田節(オンド・マルトノ)
昨日の東京でのリハーサルの後、仙台入り。
今日は、仙台国際音楽コンクールのプレ企画で、来年2月に開かれる子供たちによる「街角コンサート」のソリストのオーディション。
仙台に縁のある子どもたちという参加の縛りがあるにも拘らず、皆さん優秀。
仙台フィルも、地元の音楽家の人たちと交流を深めるためにも、この様な若くて優秀な人材がいることに思いを寄せることが大切と痛感。
これは、先日ヴェルディの「レクイエム」(仙台フィルの10月定期の曲目)の合唱リハーサルをした時にも感じたこと。
オーケストラとか合唱とかオペラとか吹奏楽とか、この厳しい社会状況の中だからこそ、ジャンルを超えて仙台の音楽界全体が手を携えて進んでいかなければならないと思う。
山下一史(指揮)
どんなに頑張ってみたところで、オレの努力なんぞはすべて裏切られる。
毎朝の目覚めは列車に乗り遅れた気分。
幸福は理性を押し殺す事に躍起さ、人は愛を歌う。いつでもどこでもお決まりの文句。後戻りは出来ない。
あれほどの溢れる愛があったとしてもそこには必ず嘘があるからな。
人のことをバカだと責めるとき、それはおのれの馬鹿さでしか人が見えないから、自分の語彙の範囲でしか他人を理解できないとしたらそれはとても悲しい。
そう マヌケとはオレのことさ
異ジャンルといわれる人たちと何かしでかそうというのは、刺激にあふれてまたとっても楽しいこと。
山下洋輔さんはやはり共演させていただく度に思いもつかぬ刺激キックで汗まみれになる。
あるいはマジックとなるとこれはもう体当たり 火花飛び散る中を駆け抜けていくしかない。
ナポレオンズさんの前にいらっしゃるのはピアニスト光永浩一郎さんです。
原田節(オンド・マルトノ)
今日は、10月1日の演奏会のコーラスリハーサル。
曲目は、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の有名な「復活祭の合唱」、「アンヴィル・コーラス」、「川の流れのように」(!)
オペラの合唱は、劇的で素敵です。
せんくらのファイナルコンサートでも、恒例の「第九」「威風堂々」のほかに、ヴェルディの「ナブッコ」から「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」を演奏します。
また、今年没後25年のヘンデルの「メサイア」から「ハレルヤ」もお聴きいただきます。
お楽しみに!
山下一史(指揮)
結局十年ぶりとなった新作の協奏曲である。
s’apprivoiserサプリヴォワゼというタイトルの意味についてよく尋ねられるのだが、親密になる―友達になるといったニュアンスのフランス語とはいえ、長らく<星の王子様>の訳語によって動物を飼いならすの意として知られている。
家畜を飼う=つまりキツネと王子の場面に出てくる単語だから=というすべてを上下関係で捉えて相手との関係をうまくやっていこうとする文化なのではなくここでは、違う個性の相手と同等な関係を築き上げて対等に親密になろうという意に、この曲のテーマは尽きる。
相手が自分より上か下かを瞬時に判断しなければならないことは、大変なようだが、実はとてもゆるく楽なものだ。
性別、年齢、出身地や学歴、いまさら本人がどうにもできないことだらけだから、一度立場を見極めてしまえば、ずっとそのままでいいし常に相手を正しく会うたびに再評価しなければというエネルギーは使わなくてすむからである。
しかしキツネはお互い違う個性を認め合い 敬意を持って王子と親密になりたいと王子に伝える。
キツネは敢えてその関係を築きたいと願うのだが、もちろん、そこでは二人の厳しい努力が必要とされるし、 決して追いつけるはずのないと思えるキツネと王子が対等なのだと描くのはサン=テグジュペリの極めて象徴的な哲学である。
オンド・マルトノ対オーケストラという単純な二極を描くのではなく
その理念を二者が語り部となって音楽を紡いでいく。
ちなみに、このような“意味ある”タイトルは私には珍しい。
いつもはほとんど言葉遊びや響きの美しさに重きを置いているから
指揮 手塚幸紀 ラスカ祝祭管弦楽団(木野雅之コンサートマスター)
原田節(オンド・マルトノ)