ウィーンはどこもかしこも夏の休暇の真っ最中! 私も昨晩は、夫の兄弟家族たち皆一緒に「ホイリゲ」のワイン棚の下で過ごしました。(「ホイリゲ」に付いてはちょっとグーグルッてみてください!)
ブログも今日が最後。この一週間、私は少しだけ“気楽なプライヴェートの日々” からご紹介したのですが、ちょっと覗いてみましたら、皆さん結構きちんとしたまじめなブログを書いていらして、これでよかったのかしらと溜息をついています・・・。(もう遅い!!)
毎年秋のツアーは夫と一緒で、「せんくら」も今までいつも彼に弾いてもらっていたのですが、今年はアンゲリカ・キルヒシュラーガーの録音やらトーマス・クヴァストホーフのリサイタルなどのオファーが来てしまい、そちらを優先してもらいました。(その代わり来年は春に、彼とアンサンブルでの「日本の歌」のツアーが計画されています。)
でもそんな場合にも、心強いピアニストが私を日本で待ってくれていますので、 私にとってもいい経験のコンサートができます。自分の中で感じることを言葉で表現して相手に伝えなければならない時、さまざまなイメージがはっきりとした輪郭を持ちますし、どれだけきちんと消化できているかが自覚されます。「せんくら」と、そのあと各地でのリサイタルでは経験もレパートリーも豊富な丸山滋さん、そしてその前にロンドンでの小さな演奏会と名古屋でのリサイタルで、小川典子さんがご一緒してくださいます。小川さんとは初リサイタルのお仕事、歌の合間にコンセプトに合ったピアノの小曲もいくつか弾いてくださるのです。
それでは「せんくら」で皆様にお目にかかれる日まで。どのコンサートにも、たくさんの皆様のご来場をお待ちしておりま~す!!
鮫島有美子(ソプラノ)
世の中にはいろんなアクシデントが転がっていると思いませんか?
だいぶ前になるのですが、主人と九州で演奏会があり、最終の飛行機で福岡から帰るときのことです。
空港に着いたら、仙台空港に自衛隊機が緊急着陸したので、仙台空港は閉鎖になっております、
仙台便は飛ばなくなりましたので払い戻しをします、と言われました。
これに乗らないと子供たちが待っているのにとあせりましたが、どうしようもありません。
出発カウンターは文句を言う人、他の便に変更する人達で大騒ぎ。
私達も払い戻しをし、急いで地下鉄に乗って博多駅に向かいました。
そこで何とか最終の、のぞみのグリーン車だと取れますとの事で、やっとの思いで乗車しました。
主人は初めてのぞみに乗れる、しかもグリーン車だと子供のように喜んでいましたが、大阪過ぎる頃から「飽きてきた早く降りたい。」の連発。
無事東京駅に着いてみると、東北新幹線は最終便の出た後。
夜行バスも出発した後で、どうしようもなく東京駅の近くのホテルに一泊して翌日の朝やっとの思いで仙台に無事着きました。
またある時は、駐車場に車を止めて用事を済ませ戻ってみると、両隣に駐車した車がぴったりつけていて、腕がやっと入るくらいしかドアが開きません。
駐車場の係りの人を呼んで、どうにか窓をあけてもらい、そこから入って車を出してもらったことがありました。
大体駐車するときは、隣の車のことくらい普通考えるでしょう、と腹が立ってそれ以来そこの駐車場には止めないことにしております。
渋谷由美子(ヴァイオリン)
仙台は、実はいろいろと思い出のある町なのです。
まずはそのむか~し、仙台フィルの「第九」に招かれた際、結婚する少し前の夫ともにホテルにチェックインしましたところ、(今では考えられないことと思いますが!)、彼の身分証明書を求められ、フロントで「正式の夫婦でないのに、一部屋に泊まるのか」などという“お説教”を受けました・・・!
そして忘れもしない2000年の夏。仙台でのリサイタルの翌日は秋田県の大曲へ。駅に早めに着いた我々(夫と二人)は、駅ビルでおみやげ物を宅急便で送ったり、カフェでのんびりと時間をつぶし、いざ新幹線口へ着いた時には結構時間ぎりぎり。出発時刻を確かめた夫について車内に滑り込み、グリーン車へ行くと我々の席にはもう誰か座っていました。切符を見せてもらったら、東京行き。“間違いですよ!”といった我々に周囲の目が・・・。なんと秋田方面へ行くはずの私たちが、間違って東京行きに乗ってしまったのです!!!
それも日に何本もない「仙台ー東京 ノンストップ」便! パニックで大騒ぎしながら東京の事務所と連絡を取り合い、結局大曲のリサイタルは一日遅れ・・・。今までの演奏歴で生まれて初めての大失敗でした・・・。
また第一回目の「せんくら」。“よさこい祭り”ともあいまって、町中の活気はものすごいものでした。ホテルのエレベーターに乗れば、普段なかなかお会いしない先輩の音楽家の方たちにバッタリ。そして私たちも町のいたるところで催されていたさまざまなコンサートに足を運び、地元の音楽家の方たちに聴き入りました。今回の「せんくら」ガラコンサートでは、ミュンヘン音大での夫の昔の生徒さん(仙台在住の小熊由里子さん)に伴奏をお願いしました。今からとても楽しみにしています。
鮫島有美子(ソプラノ)
お盆も過ぎ、真夏のなかった今年の八月も、もう終盤に差し掛かってきました。
秋ももうそこまで迫ってきていることでしょう。
今年もせんくらの季節がやってきました。
私が出演するのは永遠の名曲、ヴィヴァルディの「四季」全曲です。
と言っても私がソロをするのではなく、バリバリの若いソリスト4人がそれぞれ一曲ずつ演奏し、私をはじめ仙台に根を下ろしている人たち、仙台フィルの方々が、若い4人サポートいたします。
今回、仙台の隣の多賀城出身で、仙台の高校に通いながら一方桐朋学園のディプロマのソリストコースにも籍を置き、頑張っている郷古くんもソリストの一人として出演いたします。小学生の時に初めて演奏を聞き、心を奪われたことを今でもはっきりと覚えております。
いつでもありがちな、ただ達者に弾く子供と言うわけでなく、子供なのにどうしてそういう感覚がわかるの?と聞きたいくらい大人の感覚を持った子供でした。
ヴァイオリンを弾いているのが本当に好きで、一時も楽器を離したくないというように、いつもいつも弾き続けいたことを思い出します。
今回出演する方たちは、当然幼少の頃から天才と謳われてきた人ばかりで、才能と努力の賜物でしょう。
次の時代を担ってくれる4人と、一緒に演奏できることを、楽しみにしています。
それぞれ4人の感性、個性の違いを一度に見れて、きっと楽しい演奏会になると思います。
渋谷由美子(ヴァイオリン)
爽やかなウィーンの夏、とは言うものの、さすがに強い照り返しの真昼は、日影でも30度を越すかなりな暑さになります。日本と空気の重さが違う分、日光が肌に突き刺さるような感覚は強いかも・・・。それに加え、冷房の付いているタクシーは少ないし・・・。と、3、4日前に日本のエアコンをクサシタくせに、まったく勝手なものですね、すみません!
でもゲリラ豪雨を含め不順な天候は日本ばかりではなく、昔はウィーンやドイツでこんなに暑くなる日々が続くことはなかったのです。(冬の雪もめっぽう減りましたし、時には東京のほうが寒いこともあります。)
ところで、今日(20日)発売された「クロワッサン プレミアム」という雑誌
に、私がウィーンを紹介しているページがあります。普通の観光用ではないので、あまり知られていないウィーンの街角やお店をご覧になれると思います。本当はもっといろいろなアイディアがあったのですが、取材や撮影の日程が限られていたり、日曜日のせいで閉まっているお店があったりでこのくらいになりました。
コンサートホールも、世界中に知られている楽友協会やコンツェルトハウスではなく、外側からはまったく目立たない、でも歴史あるエアバールザールなんか、日本の方はほとんどご存じないでしょう?!(今はどちらにしてもシーズンオフでクローズドですが。)
鮫島有美子(ソプラノ)
さて、昨日最近“ハマッテいるもの”の一つを紹介したところで、もうひとつも告白してしまおうかな・・・?!といっても、もうこれは今年、ウィーンのオケとのニューイヤーコンサートで“公表”して、結構多くの人に知られてしまいましたが・・・。(著書「プラタナスの木蔭で」も参照!)
スポーツが苦手なこの私が、実はこの何年かダンス教室に通いつめています。昔から興味があった「社交ダンス」ですが、たまたま友人に紹介されて始めだしたら(ほとんどピラーテスと同じ理由で)やめられなくなりました!
体を使った楽しく厳しいレッスン、でもツラクはない。そして音楽と先生の息にうまく合って踊れたときの快感は、ピアニストとの演奏の一体感にそっくり。体にいいことをしているという思い。頭やバランス感覚も鍛えられますし、「ダンスとピラーテス」はちょうどトライアングルの下の部分で頂点の「歌」を支えてくれています。通っているのは基本的に日本にいるときだけですが、最近、時折ウィーンの先生にも教えていただくことにしました。だって有名な「ウィーンのダンス教室」は日本のお花やお茶のように、ごくごく日常に存在しているのですもの、せっかくですからちょっとハナを突っ込んでみたくなりました!
もしも30年位前にこれらに出会っていたら、“ダンスとピラーテスで鍛え上げられた体を持つ、踊って歌える”稀有なオペラ歌手になっていたかも・・・なんてね! さまざまなリズム感覚を体で覚えられるのも、ものすごくいい勉強です!
鮫島有美子(ソプラノ)
昔からスポーツはあまり得意ではありませんでした。特に、走ったり泳いだりと、ツラクなるものは絶対に。かろうじて球技だけはなぜか好きでしたが。
そんな私がこの何年かハマッテいるものがあります。スポーツとは言えないかもしれませんが。
そのひとつ、ピラーテスに今日は久し振りに(一ヶ月ぶり!)行きました。
日本では「ピラティス」と言うそうですが、もともとはドイツ人のヨゼフ・ピ
ラーテス氏が始めたものなので、オリジナル尊重の意味も込めて「ピラーテス」と言わせてください。
ハマッタ理由はいくつかあるのですが、年齢を重ねてくると、それまで無意識に使っていた体の筋肉が衰えてきて、そこを“解明”して意識させてくれること。個人レッスンでは先生がきちんとコントロールしてくれるので、間違わないこと。
そして何よりもツラクないこと!! いろいろな動きをさせられるのですが、あ~大変、と思い始めるときにはもう次の運動なので、「鍛えているけれどシンドクない」という気持ちが持てます! そして歌い手は一番大切な「腹筋をどのように正しく鍛えるか」が分かってきます。
先生の資格を取るには、850時間以上のレッスンを受け、解剖学的な講義と筆記試験、そして審査員の前で5人以上の公開レッスンをして合格点をもらわなければならないそうです。
「ユミコ、暇で退屈だったらライセンスに挑戦してみたら?」・・・ヒマでタタ・タ・イ・ク・ツ・・・?!? それよりまず、私の年齢を誤解しているみたいです、ここのピラーテスアカデミーの先生は!!
鮫島有美子(ソプラノ)
先回のリズム・テンポの話は、私たち人間の体内で起こっている「生体リズム」にも共通して言えることだと思う。心臓は常に脈打っている。また、脳にも脳波があってその波長の違い( テンポの違い) から様々な脳波が観測されるという。低い( 遅い) 波から高い( 速い) 波まで、これらの脳波がひとりの人間から常に出ている。つまり電氣振動している。安静時にはアルファ波が強く出ている等言われて、その人その時の心身の状態を間接的に示す目安になっている。
身体の作りを見ても興味深い。人間の身体は関節によって様々な動きをするが、足首、膝、腰、肩、首、肘、手首だけ見てもそれらの関節を中心に円運動をしている、多重振り子であることがわかる。それぞれの部分のリズムが調和して骨格を形成している。「棒立ち」では動き得ないのである。人間の関節はいくつあるのだろう?
先述の脳波のように、一つの脳から複数の波が見られるのと同様、声や楽器の「音色」というのも、複数の波で成り立っている。一番低い音波を「基音」といい文字通り土台の音、その上に「上音」と呼ばれる様々な高さの音波が無限に息づいている。この上音の構成の違いが音色の違いを生む。やはり音も上へ向かって響いているのだ! 音波は振幅だから回転しているとも言える。即ち音自体がリズムで、大小無限のリズムが調和して回転している、とも言える。
オーケストラの響きはその人数分の音が基となる訳だが、一つの楽器から無限の音波( リズム) が出ているのだから、無限の二乗倍となる。
こういった事象から、限りない調和の可能性が見えはしないだろうか。単なる音程やリズムの整列、といった表層的な次元を超えたものとして。
光は粒( 光子) の集まりだという粒子説と、波( 場) だという波動説の、これらどちらかが正しいということではなく、実は光には粒と場(波)という二重の性質があるという。
粒だけを見ようとすれば波としての性質は見ることができず、波としてとらえている時には粒としての性質が見えない。人間の脳は1つのモノに対して見られるこれら2つの性質を同時に見ることが出来ないという( N. ボーア「存在の相補的二重性」)。「場の研究所」主宰の清水博・東京大学名誉教授はこれをもとに場と個人との関わり合いについての研究を進めている。
個としての性質を局在性と呼び、全体に拡がる性質を偏在性と呼ぶ。先回のテンポの話もこの相補的二重性が認められる。局在化したテンポ6 0という円運動から同じく局在化した他のテンポを求めるには、これら2つのテンポに共通して存在する偏在的なある何かを感得している必要があるからだ。
オーケストラが社会に於いて存在する意義というのは、まさにこの「相補的二重性」を認め、その音楽をひらいていくことにあると私は思う。画一の全体主義や機能性を追求することは確かに「美」として求められるが、局在的要素といえよう。無限に小さい( 速い)リズムと無限に大きい( 緩い) リズム、両極端が感じられる響きとは、仏教で言う一即多・多即一に通じるだろうか。
オーケストラのステージでは、その人数分の心臓が鼓動している。そして会場には数千人の聴衆が。
それら全ての心臓が大きなひとつのリズムと呼応するビートで、意味のあるリズムを!そして立ち上がる響きを!
竹内将也(パーカッション)
日本はまぁなんと食生活の贅沢な国でしょう!! TVを見ても「グルメの王国」だの“おいしいものを求める”内容の番組が溢れています。(夫によると、こんなに食べるシーンの多いTV番組は世界中どこにもないとか・・・)新幹線やちょっとした列車に乗れば、ほとんどの乗客はすぐさま“ナニカ”広げだしますし、駅弁しかり、さまざまな駅のおみやげ物屋さんしかり・・・。ヨーロッパへ旅行された方たちは気がつかれるでしょうか、駅に「その土地の特産物コーナー」なんてなぁ~んにもないことに。
デパートの地下街やデリのお店、世界中のおいしい食べ物が町中・・・どころか、今ではカタログやインターネットでも簡単に手に入るようになり、私たちの舌はますます肥えてくるようです。日本にいると“ごく普通”のことなのでしょうけれど。
それでもウィーンに戻って来て体重計に乗ると、不思議と太っていません。(これ以上、の意味!! ドイツ人の表現によると、私は“若枝のようにほっそりしなやか”ということになるのです・・・ハハハ・・・)体脂肪にいたっては、必ずと言っていいくらい約3%ほど減っています。三食結構ちゃんと食べているのですが。でも1週間経たないうち、体脂肪はまた「ヨーロッパ数値」へ逆戻り。量的にはずっと少ないはずなのに、摂取する脂肪分が違うのでしょうね。だってやっぱりチーズもバターもおいしい・・・。
あのう、仙台の特産品て(「萩の月」と牛タン以外)なんでしょうか・・・?!
10月は4日間滞在するので、実は楽しみなのです!
鮫島有美子(ソプラノ)
「私はリズム感が悪くて・・・」という声を聴く。
あるパターン、組み合わせといった「枠」でリズムをとらえようとすると、単なる知識としてしか見えてこない。複雑なパターンとなるとそれを覚えることに躍起になってしまい、リズムを身体表現することから離れていってしまう。
今回の公演で私が意図したいことは、こういった現実問題へのひとつの提案である。
メトロノームによって私たちは様々なテンポを速やかに確認することができる。1秒はテンポ6 0。1分間に6 0回転するという意味である。では1分間はというと、1秒が6 0回とか、1時間に6 0回転するうちの1 つ、などという言い方になる。つまりは相対的な尺度に過ぎず、これではテンポ60それ自体の速さが何なのかを絶対的に説明してはいない。
動いているメトロノームをじっと睨みつけ、自分の演奏をそれに追随させきることが正確なテンポの表現といえるのだろうか? 言い換えて、他者のリズムに正確に合わせることが良いリズム感なのだろうか?
テンポ6 0= 1秒このテンポ6 0を身体に覚え込ませるだけで、様々なテンポを自分で作り出すことができる。
60× 2= 120
× 3= 180
× 4= 240
× 5= 300
× 6= 360
× 7= 420
× 8= 480
× 9= 540
× 10= 600
まずテンポ60で円周を指で空中に描く。
その2倍の速さで円周をつくるとテンポ6 0の中に2回転がとれる。この1回転分がテンポ1 2 0である。イチ、ニと声に出してカウントもしてみる。ひとつひとつをハッキリと!
ここで注意して頂きたいのは、あくまで「2倍」の感覚であり、半分に割るという感覚とは異なる。より言えばイチ、二でもなく、イチ、イチといった感じで。文字通りイチイチ云うのである。
カウントを何か言葉に換えてみる。60の中で「タケウチ」を唱えればテンポ2 4 0がつかめる。タケウチマサヤにすれば420である。
このように言葉や「ドレミファソラシ( これで7 つ)」など一文字単位で唱えれば、数字でやるよりも正確で楽である。ハッキリした日本語の誕生!
今度はこのようにして出したテンポから任意の長さを採ってみる。
先程のテンポ120を解説すると、テンポ12 0は6 0と1 : 2 の関係だから、テンポ60から2回転出してそのうちの1回転分が120になる。これはマーチのテンポ。テンポ90は60と2 : 3 の関係だから、テンポ60から3回転出してそのうち2回転分を採る。ドレミ・ドレミ・ドレミ~ と唱えながら同じ速さのままドレ・ドレ・ドレに言い換える。
テンポ80は3 : 4 。4 回転だして3回転分とる。
ドレミファ・ドレミファ・ドレミファ~ → ドレミ・ドレミ・ドレミ
テンポ100は? 70は? 40は? やってみてください。
このようにして得たテンポをもとに、好きな歌を歌ってみてください。今までと違う感覚がありませんか? 拍子に回転感覚のある、生きた音楽のはじまりです。大きなリズムを曖昧にしなければ、同時に小さなリズムも蔑ろにしない、一つ一つのリズムに意味が出てきます。
テンポ6 0= 1秒がもともとは地球の自転のリズムから生まれたことを考えれば( 実際にはズレがあるのがまた興味深い)、テンポとは大自然の息吹ということができる。
私たちはそれを音楽のビートとして微分・積分して利用している訳である。
こうしてくると、我々が接しているテンポとは、宇宙の大きなリズムの中から見い出された、言わば小さな宇宙のリズムと見ることができるのではないか。自分でテンポを作り出すということは、私的な行為でありながらも、公的な現象であり、他のあらゆるテンポとも調和する。これは音楽が私達に教えてくれる最高の啓示の一つではありませんか!
竹内将也(パーカッション)