「指揮者と団員の幸せな?関係」 ソプラノパートリーダー 多賀真理
昨年のせんくらはプログラムを手に地下鉄を駆使して楽しませていただきました。そんなせんくらファンのひとりが、今年はステージで歌わせていただくことができるなんて…!わくわくです。
さて今回は、私たち団員と今井先生の日常に焦点を当ててみようと思います。
私たちは「ごく普通の街の老若男女」。生活や仕事をそれぞれにやりくりして歌いに来ています。15歳から70歳代半ばまでという年齢の幅はちょっとした自慢。団の中では地位や肩書きを取り去った、みんなただの「ひとりのひと」として存在しています。ある若い団員がベテラン団員の職場を訪ねたところ、絨毯敷きの重役室に通されてびっくりした!なんていう話もあるほどです。ひとりひとりを大切にし、受け入れてくれる懐の深さがあり、20年、30年と長く在団しているメンバーも多くいます。最近は、仕事や家庭の都合で仙台を離れても退団せずに「遠隔地団員」として活動を続ける団員も増えてきて、“関東支部”と称し定期的に自主練習までしています。その後の飲み会が楽しみという声も…。
今井先生は、ほぼ毎回の練習に来てくださいますが、なにぶん“フツーの老若男女”は楽譜にかじりついていることも多く、「ちょっとでいいから指揮見て」と先生がお願いすることも度々。さらには「その指揮じゃわかんなーい」などとツッコミを入れられたりして、割に合わないね、先生。練習後に食事に行けば行ったで「学生の分はボクが…」と言いつつ、割り勘の計算などしてくださって…。ごめんなさい。でも私たち、先生のこと心底尊敬していますよ。
合唱をするというただひとつの共通の目的で集まっている私たちですが、集まってやっているのは合唱ばかりでもありません。有志を募っては「尾瀬を歩く会」「乗鞍登山」「バラを観る会」等お楽しみが色々です。「ソプラノコンパ」も外せません。そんな中でも伝統のあるのがスキー部です。団員の家族や友人も交えた「田沢湖年越しスキーツアー」はかれこれ20年以上も続いていて、ツアーがきっかけで誕生したカップルもあります。ちなみに私の弟(団員ではナイ)も、これでお嫁さん(団員)をゲットしました。
団員の披露宴には、みんなで出かけて行き、歌でお祝いをします。スペシャルなのは、今井先生がそのために曲を作ってくださること。もう30曲近くにもなります。団員の顔を思い浮かべながら生まれた作品は、先生がその時々に選んだ歌詞と共に味わい深いものです。いつかまとめて「祝婚歌」として出版されないかな。
アマチュアにも関わらずなかなかに多い活動と、アマチュアならではの練習量の多さに伴い、私たちが共に過ごす時間は計り知れません。初々しい若い団員が成長し、やがて立派な社会人や親になったり、お孫さんができたり…そんな人生の大事なひと時を、合唱を通じて一緒に進んでいく、ちょっと大袈裟ですが人生を共有しているとも言えるかもしれません。不器用な私たちですが、日常の中に、仲間と共にじっくりと音楽に取り組む場があるということは、ほんとうに幸せな、ありがたいことだと思います。
・・・GHWのステージまであと65日
7月28(土) 今日は築地のブディストホールで「築地JAZZ寄席」なる大イベント。で、13時から22時まで、私は大車輪の活躍。フランスからやってきた、アルトサックスの仲野麻紀さん率いる「Ky」との共演、先日の深川和美さんとのデュオ、私自身のカルテット、一日中いろいろなセットでほとんどステージに出ずっぱり状態!決して自分で志願したわけではないのだが、こちらの要望とプロデューサーからの依頼をまとめていたら、このような一日になってしまった。あらら~
そんなエネルギッシュ一日だが、なんといっても本日のハイライトは、落語家の林家彦いち師匠との「セッション」噺とジャズ。決して伴奏にならずに、でもコトバをきかせるのは当たり前だし、どうしよう、と考えてると「おもいっきりきてくださいね!どんなになるかわからないし、とにかく楽しくやりましょう!」師匠の一言でセッションは始まった。
まずは出囃子ならぬ「出ジャズ」から。武闘派といわれる師匠に「ロッキーのテーマ」でがつんとご登場願う。そして、いきなりの古典 の名作「寿限無」が「名前がついたあたりからやります」の一言で始まる。山下洋輔さん流に「めけけけけけけ ちょぱっ ずごがっ らぺろさ ぴきゃろん すぴぴぴん」とこんがらがりつつも、はじけてしまう。
「おもしろい」を連発する師匠。こんどは師匠のオリジナル新作「停電でとまった電車内でサラリーマン、主婦、パンクにいちゃんたちの織りなすアホな騒ぎ」の噺。これは、語りの間合いのうまさにひきこまれて、思わずピアノを弾く手がとまってしまう。抜群のリズム感とタメ方だ。客席でうちの息子の大爆笑が聞こえる。ラストは「車やさんの噺」(タイトルきいたのですが、忘れました、、、)アルトサックスの宮野裕司さんに飛び入りしていただいて、3人でのセッションとなる。
ブルース一本(1曲)でいてまえ~で、演奏がエキサイトするとコトバが聞き取りにくくなってしまうのだが、どうしても噺のもりあがりで、こちらもどんどんもりあがっていってしまう。夢中になって終わって、しばらく放心状態。
こちらは冷や汗ものの企画ではあったが、師匠「いやあ、おもしろかった!またやりましょう。他の噺家さんとやっちゃだめですよ、これ。 ぼくとですよ必ず」の一言を残して、次の現場へ。
昔から落語とジャズの親近性が言われてきたが、いきなりの「セッション」で、がつんと体感させていただきました。間合いとアドリブ。
深い世界だなあ。もっと古典を勉強して、次にそなえようっと。
「GWHの社会貢献?」 アルト 高泉静子
私が入団した20数年前は、1年間のステージ数は4~5回(定期演奏会、コンクール県大会、東北大会等)が平均でした。が、最近は様々な演奏依頼等をいただき、12~15回程(月に1回以上!)となっています。
これまでに県外では、全国都市緑化フェア、世界合唱シンポジウム(京都)、東日本合唱祭、国民文化祭(一関市)水と緑の音楽祭(郡山市)、高田三郎記念コンサート、東京カンタート(東京)、地元仙台では古くは故島野仙台市長の市民葬献奏、仙台市制100周年式典、仙台アジア音楽祭、宮城国体のテーマ曲録音、さとう宗幸さんのチャリティコンサート、自衛隊音楽隊、仙台フィル特別演奏会(木村政巳氏レクイエム初演)、仙台駅での赤煉瓦コンサート、もう10数年余も続いている東北労災病院でのクリスマスコンサートなど様々な演奏の機会に恵まれて参りました。
また、写真にある仙台城址の土井晩翠像の傍らで1日3回流れる「荒城の月」の演奏はGWHのものです。
そのなかの1つの出来事です。労災病院でのコンサートでは、お客様は患者さんが中心です。ある年、コンサートの最中に一人のおばあさんがベッドに横たわったまま会場に運ばれて、しかも病状は重いご様子で苦しげな表情をうかべているのが歌っている私たちからもわかりました。
ところが、「青い山脈」を歌いながらふとそのおばあさんを見てはっとしました。私たちの歌に合わせてわずかではありますが一緒に口を動かして歌っておられたのです。おばあさんの生命に私たちの演奏が間違いなく届いている・・・ そう思った瞬間私は歌いながら思わず涙がこぼれそうになりました。・・忘れられない経験です。
最近長年の活動やコンクールでの好成績で、宮城県芸術選奨や仙台市民金メダルをいただきましたが、今後も「せんくら」のような演奏依頼に恵まれることが何よりの喜びです。
当日は皆さんの反応、息遣いを感じ、瞬間瞬間を楽しみながら演奏したいと思っています。
・・・GWHのステージまであと66日・・・・・・
7月20日(金)この日の午前中、私は調子にのって、地元の「飯野山」通称・讃岐富士421メートルに登山しました。登山家の友人に言わせると、「それは登山とはいわん、分類上それは「登丘」である」と言われてしまいましたが、なかなかどおしてけっこうきつかったです。日頃の運動不足もありますが、、、汗だくになって降りてきて、連れていかれたのはなんとおそば屋さん!えーっ讃岐でそば!!もちろん初体験でしたが、おいしいおそばを頂き、体力も回復。さて、夜のライブはその「飯野山」の麓に位置する、丸亀・88STAGE 内「布木紙楽土」(ぬのきしらくど)にて。ここは家具とインテリア関連のお店です。音楽ライブもよくされていて、音響もすばらしいのです。昨年のクリスマスに父と朗読とピアノのコンサートを開催して頂いた折に、こんどはぜひ「パリャーソ」でと私が切望し、それがかないました。
お客様は思い思いにいろいろな形のソファや椅子(でも、これは実は販売されている商品群!)に座ってゆったりとくつろいで聴いてくださいます。最前列には妊婦さん(予定日は来月だそう)が気持ちよさそうに。なんか我々の激しい音楽で産気づいてしまったらどうしよう、と余計な心配もしてしまうのですが、終わって彼女のほうから話しかけてきてくれて「リズムの激しい曲だと、お腹でぴょんぴょん動いてすごくノッてるんですよ」とニコッと一言。お腹のお子さんは、どうやらバラード系よりビートのきいた曲のほうを気にいったようだ。そりゃあそうだよなあ。これから、こんなきびしい世の中に出てきて、やっていくんだものなあ。やわじゃあ、やってられんわな。がんばれ~ なにかつらいことがあっても君にはいつも音楽がある。いつの日か「あれ?この音楽なんか懐かしい。ずーっと昔どこかで聴いたような気がする」と思ったらそれは「パリャーソ」の音楽だよ、きっと。
「コンクールとCD」 副委員長 戸松若菜
コンクールに向けての練習は、検討に検討を重ねて選んだ曲に時間をかけて取り組むことのできる楽しい時間です。(7月の定期演奏会後、8月下旬の県大会、9月下旬の東北大会、11月下旬の全国大会まで4カ月ですが、東北・全国大会は毎年違った県に行ける楽しさもあります。)
課題曲と自由曲で計12分ほど、定期演奏会で一度ステージにのせた曲が多いのですが、我らが今井先生は、曲を詳細に分析し、可能なアプローチを次々に試みます。
そのため、前回までの練習で要求されたことはことごとく否定され、歌い手である私たちは時折抗議の声を上げることになります。
そんなときでも先生はすまして「そんな昔のことは言わないで」という調子
コンクール1~2週間前になると状況はさらに極端になり、どう歌っても「そんなに決まっていることのように歌わないで!」と言われるのです。
ちょっとは歌えるようになったなあ、と思っているのですから混乱をきたします。
常に変わり続け、一つのところに留まらない音楽、これで出来上がりということはなく、本番のステージまでどう変わるかわからないのです。今井先生の頭の中には音楽の景色が見えているのだと思いますが・・・
そんな葛藤(?)あるいは努力が報われた表彰式後、ご覧のように団員の表情は一年で一番輝いて見えます。
昨年末には、全国大会9回分の演奏のほか2005年に京都で開催された世界合唱シンポジウムで演奏された鈴木輝昭先生委嘱作品の「斉太郎節考」等、決して起用ではないGWHが一番時間をかけて作り上げた音楽が盛り沢山詰まったCD「Green Wood Harmony Selection Vol2」がBRAIN MUSIC社から発売されました。当日販売予定ですので、是非お聴きいただければと思います。
・・・GWHのステージまであと67日・・・・・・
7月20日(金)瀬戸大橋をこえて、四国の地へ。わーいうどんだ、うどんを食うぞ~。その前に今日は、「坂出市立中央小学校」で学校公演。1年生から6年生までの全校生徒、それに先生、父兄の方々。大勢の熱気につつまれる体育館に冷房装置がないと、きゅうきょ「氷柱」をピアノの前にセットしてくださる。この心づかいがうれしい。
「なにを聴かせてくれるのかな わくわく」と見守るつぶらな瞳でいっぱい。「ぼくらのやってるのはジャズという音楽で、こういうメロディとコードネームが書かれている紙一枚で、演奏するみんながルールを作って自由にやるんだよ」懸命に力説する私(写真参照)だが、やはり言葉より、演奏の一音にまさるものはなし。♪ふわあ~とハーモニカの最初の一吹きがみんなの気をあっというまに集める。誰でも知ってる曲をやったほうがいいかなと、「となりのトトロ」を演奏するが、「こども向け」のつもりで「わかりやすく」なんて考えても、そんなのは魂がはいってなくて、結局のところは、いつもとかわらないばりばりアドリブ全開演奏。でも、なにかを感じてくれたかな。きっとそう思う。
途中「質問コーナー」を作ってみた。最初、もじもじしていたこどもたちも、一人が思いきって手をあげると、その後はどんどん。「好きな歯はどれですか?」「へっ?歯 歯ですか、、、考えたことなかったなあ みんなまだ乳歯のほうが多い?歯は大切にしようね」ありゃりゃ答えになってないか。でも、こんなおもしろい質問もこどもならでは。
「一番好きな曲はなんですか?」「1曲や2曲じゃあ決められない 100曲くらい 言っていい?」楽しいやりとりが続く。続木力さんの実家がパン屋さんで(京都、進々堂さんです)当初、立派なパン職人になるべくフランスへ渡ったのだが、日本に帰ってきた時には「立派なハーモニカ演奏家」になっていたという話がうけまくる。なにか、これだ!
というものを見つけられるといいね、みんな。おじさんたちは応援してるよ!がんばれ~
<コルボさんと今回の第九のソリスト、うしろ姿のヴィトマーさん>
「主な共演者」 副指揮者兼コンサートマスター 渡辺まゆみ
私が入団した1978年、すでにGWHは歴史のある合唱団でした。初めて練習に行ったその日、ごそっと楽譜を渡され、“さすが、仙台の歴史ある合唱団は違う!”と意欲を掻き立てられました。
今にして思うと、あの年は特別の年だったようです。6月末の定期演奏会では客演が関屋晋先生、7月にはヘルムート・リリング氏が来仙して開かれた「コーラス・ワークショップ」に参加、さらに8月から常任指揮の今井邦男先生が1年間の英国留学で留守になるという激動の年でした。今井先生が留守の間は大泉勉先生が指揮をして下さいました。
このような時期に入団し、はからずも短い期間に何人もの素晴らしい先生方の指揮で合唱が出来たことは幸運だったと思っています。
現常任指揮の今井邦男先生は1974年からお願いしていますが、それ以前には、常任指揮者として福井文彦先生、岡﨑光治先生、海鋒博美先生、中野貢治先生を、そして客演には福永陽一郎先生をお迎えしています。今井先生就任後も、節目の定演には客演指揮者をお願いしてきました。
‘81松原混声合唱団とのジョイントで再び関屋先生、‘87黒岩英臣先生のモツレク、‘88にはヘルムート・リリングさんの「ヨハネ受難曲」(仙台バッハ・アカデミーのコンサートで)、‘94、‘95髙田三郎先生の「水のいのち」他、‘96ミッシェル・コルボさんと「ロ短調ミサ曲」やモンテヴェルデイのミサ曲、‘99皆川達夫先生のジョスカン・デ・プレ「パンジェ・リンガ」、‘01辻正行先生とブラームス「愛の歌」などと枚挙にいとまがありません。
おおらかで繊細な音楽作りの関屋先生、穏やかなお人柄から出てくる熱い指導の黒岩先生、エネルギッシュで温かい反面、凄まじく集中した指揮の髙田先生、豊かな知識と経験そしてウイットに富んだ皆川先生、温かく全員を包み込む辻先生、どの先生から、音楽とともにたくさんのものをいただきました。
なかでも、仙台バッハ・アカデミー10周年記念で来仙したミッシェル・コルボ先生に私たちの定期演奏会を指揮していただけたことは、今でも信じられないほどの大きな出来事でした。コルボ先生は丁寧で具体的な練習で(よく歌ってくださいました)、私たちの力不足にも粘り強く指導して下さいました。練習の合間には団員の中に入り気さくに声をかけてくださったり、肩を揉む団員にニコニコと目を細めたり、短い期間にたくさんの忘れられない想い出ができました。(写真はコルボさんと今回の第九のソリスト、うしろ姿のヴィトマーさんです。)
また、ピアニストでは在仙の多くの方々と共演したほか‘03‘04に第1回仙台国際音楽コンクール優勝者のジュゼッペ・アンダローロさんそして今回の土田さんとの共演も実現しています。
それから、仙台出身で在京のソプラノ歌手清水明子先生には30年にわたって発声指導をお願いしています。団員の平均年齢上昇や年齢差拡大が確実に進行している団に、豊かな経験に裏打ちされた指導をいただき、経験や老若男女を問わず技術や精神面を支えていただいています。
このように創設以来たくさんの素晴らしい先生方にご指導いただいてきました。そして、先輩をはじめこれまでGWHに関わってくださった皆様、GWHの演奏会を聴いてくださった方々、数え切れないほど多くの皆様のお陰で、現在こうして私たちが合唱を楽しんでいられることに感謝するとともに明日に向かってまた一歩、皆で踏み出さなければと思う今日この頃です。
・・・GWHのステージまであと68日・・・・・・
7月19日(木)今日はやはり神戸の「エレガーノ甲南」という介護付き老人ホームでの演奏会。入り口を入ってびっくり!なんと高級ホテルのようなおちついた、かつ豪華なたたずまい。働くスタッフもきびきびとしながらも品がある。演奏会場はまるでダンスホール。皆様との距離をおかずに、より近くで演奏者の気を感じていただこうと、舞台を使わずフロアに直接ステージセッティング。今日のゲストはパーカッションの山村誠一。スティールパンの名手だ。さてさて、人生の酸いも甘いも噛み分けた方々へ我々の音楽がどう届くのか。
パーカッションの参加もあり、リハ時に「ご年配の方には少し刺激が強いのでは」とやんわりクレームがついた曲もあったが、一日の演奏、静かな曲ばかりでは構成できないし、ジャズをベースとした「パリャーソ」の名がすたる。「まりと殿様」という童謡をリズムを強調してジャズアレンジしたかっとばし系の曲もやってみる。
最初からノリノリで踊っているご婦人(どうやら認知症の方らしいのですが)瞑目して聞き入っているが、時折りカッと目をあけこちらを見入る、まるで仙人のような紳士(あとできいたところによると、引退された能狂言の重要な役者さんだそうです。今でも教えを乞う人がたえないとのこと)曲によって快、不快の念をストレートに表情にだされる方、拍手をふくめまったくなんの反応も示されない方。いろいろな方がいろいろな反応をされることに、最初少しとまどってしまうが、だんだんといつもと変わらないノリノリの演奏になっていく我々に、聴いてくださる方々が、徐々にひきこまれていくのを肌で感じる。
あたたかいアンコールの拍手も頂き、ほっとひといきついている私のもとへ、「あなたたちすごくよかったよ、CDあるの、買いますよ」と声をかけてくださった方に涙がでる。案ずるより産むが易し。つたない言葉で自分たちの音楽を言葉で解説するより、結局一つの音のほうがどれだけの説得力があることか。
今井邦男(グリーウッドハーモニー指揮者)
「父のピアノ」
僕は、今でも父の使っていたピアノを使っている。昭和15年製造のヤマハである。
満鉄(満州鉄道株式会社)に勤めていた父が、大連に住んでいた頃からのもので、僕はそこで昭和17年に生まれた。しかし父がカリエスに罹り、昭和19年12月には帰国することになり、宮城県は桃生郡須江(現石巻市)に療養目的で疎開したのである。 この時期にピアノを含む家具一切と共に引越しできたのは全く稀有のことだったに違いない。われわれを下関に運んだ客船は帰路爆撃をうけて沈没しているのである。
父は学生時代、個人レッスンで声楽を学んだ。師は武蔵野の東海林先生(東海林太郎の奥さん)とのことだった。ピアノも弾いたし作曲もした。こちらも相当程度レッスンを受けていたに違いない。父の兄弟にはもう一人、山田耕筰に和声を習い、作曲もする叔父がいたので(この叔父は専門家になり、後年日本音楽学会で活躍した)、当時としては洋楽を学ぶことができるというかなりモダンな家風が今井家にはあったのだろう。
というわけで父は、音楽を生業にこそしなかったが一生を音楽と共に生きた。満鉄時代には合唱団を組織してその指揮者をしていたし(これが150名はいる大合唱団だった)、 須江村で終戦を迎え、病床から少しずつ起きられるようになってからは、いつも村の中学校の生徒たちがわが家にコーラスの練習にやってきていたのである。練習場所が学校でなかったのは、病身の父の都合もあったと思うが、学校を含めて村にあるピアノが我が家の1台だけという事情のせいだった。中学生たちは戦後すぐのNHK学校唱歌コンクールに出場していたのである。
さてそのピアノだが、昭和15年頃のヤマハの技術の程度には詳しくはないが、外側はヤマハで内部のアクションはドイツ製だった。鍵盤は85鍵あり、(現在はほとんど88鍵)象牙を使っている。「だった」というのは実は現在のピアノは、14、5年前リニューアルしたものである。愛用していたピアノもさすがにピンの緩みが激しく調律が出来なくなっていたところ、現在大和町でピアノ工房を開き活躍されている伊藤正男さんと知り合い、リニューアルすることにしたのである。ピンを打つ響板を含めて、内部のアクションを全て一新する大改造である。結論から言うとこの改造は大成功だった。
以前のピアノは素晴らしく柔らかい、繊細な響きがいつまでの残るピアノだったが、一方でタッチは老化したせいもあってかフォルテの打鍵にはやや頼りないものだった。
リニューアルピアノは、さすがに以前の繊細な音色と打鍵後の長い響きを失っていたが、かといってどのピアノでも聴いたことがない新しい柔らかさと深みをもつ魅力的なものに変身していたし、打鍵は強打にも十分耐える素晴らしいものになっていた。
こうして父のピアノは今年で67歳、既に父の歳を越えている私より年上だが、優に私を越えて長生きすることは間違いない。大連で(確か購入は韓国のソウルだったかもしれない)満鉄合唱団の譜面が弾かれ、石巻では村の中学生の合唱の伴奏をし、何人かの専門家も育てた。
僕自身は自分のピアノを持っていたが、父の亡き後は次第に父のピアノで仕事をするようになった。今でもピアノに向かうと、どこからかピアノ自身の歌が聞えてくることがある。私の乳母の声である。
土田定克(ピアニスト)
<土田さんはモスクワ音楽院在学中に参加した第1回仙台国際音楽コンクールでセミファイナリストとなりましたのでご存知の方も多いのでは。その後ラフマニノフ国際ピアノコンクール第一位を受賞しています。出身は東京ですが、縁あってこの4月から尚絅学院大学で教鞭をとられています。同じピアニストの奥様、お子さんと3人、自然豊かな環境での生活も満喫されています。>
仙台に来て早4ヶ月が経ちました。東北での生活は初めてですが、日本の北国は実にいいものです。
「北国には控えめな美しさがある」とある時ロシアで友人が語っていたのを思い出します。最早7月だというのにまだこの気温!その寒さに驚かされるばかりですが、窓の外を見ていると人の手がつけられていない木々の緑が喜んで生きています。
グリーン・ウッドとは2回協演させていただきました。練習時の熱心さもさることながら本番での底力には圧倒されるものがあります。
杜の響き、とでもいいましょうか、大人数で歌われる混声合唱の迫力、音響のスケールには壮大な森の木々がこだまし合っているような感覚さえ覚えます。一人一人が自由に歌っていて、なのに全体が調和している、それは自然界の法にも適ったGWH独自の魅力だと思います。今後とも素晴らしい歌を是非たくさん聴かせて下さい!
・・・GWHのステージまであと69日・・・