2006年06月10日 

2006.06.10| 伝田正秀

ガルネリ・デル・ジェスの曾孫と一緒の中澤さん

私のヴァイオリン・メモ(7)
『アー・ユー・ドランク?』
『イエス・アイ・アム』

今や、ストラディヴァリウスをも凌ぐ人気を誇る、バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ、通称デル・ジェスのお話。

彼は一六九八年にイタリアのクレモナに生まれました。彼の存命中は、全くと言っていいほど評価されず、一七四四年失意のうちにこの世を去った名工でした。

彼は天才によくありがちな、非常に感情の起伏に富んだ人間で、酒浸りであったり、喧嘩をしてはそのあげくに投獄されたり、といった事を繰り返しました。後年彼が、デル・ジェスと呼ばれるようになったのは、彼の作品のレーベルと『IHS』というモノグラムを入れたためで、それは『救世主・イエス』を意味します。一説にこのレーベルの版木を作ってデル・ジェスに与えたのは、「自戒せよ」という思いをこめた、かのストラディヴァリであったとも言われています。

今思えば、大変もったいないことですが、彼の作品には、ずいぶんおかしなものもあって、ネックがねじれているものや、左右が非対称のものや、f字孔のおおきさの違ったもの等々があります。これらは、『ドランク(よっぱらい)・デル・ジェス』と言われているもので、彼が酒を飲みながら作ったものだろうと推定されているものです。また、『プリズン(監獄)・デル・ジェス』と呼ばれているものも残されていますが、これは獄中で暇つぶしに作ったものだろうと言われています。

こんなデル・ジェスにもゴールデン・ピリオドがあり、それは一七二九年、彼が三十一歳の時から死をむかえる前年までに制作したものです。ブレッシア派のガスパロ・ダ・サロの影響を強く受けたもので、あくまでも音量に重きを置いた作品でした。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

2006年06月10日 

2006.06.10| 高山圭子

高山圭子さんに期待します!

高山圭子さんが、在仙音楽家の中から抜擢され、今般、仙台クラシックフェスティバルに出演されるとのこと、「熱狂的に」支持します。

高山さんは、誰をも魅了する声を持っています。まさに天性のものでしょうが、それに加えて熱心な精進の賜物であることも見逃すことはできません。

高山さんが「仙台バッハ・アカデミー」のクルト・ヴィトマー氏のマスタークラスに現れたのは、2000年頃でした。彼女はスイスバーゼル音楽院の看板教授ヴィトマー氏をウィーンのマスタークラスで知って、仙台のクラスにやってきたのです。その年以来、春秋年2回のマスタークラスを欠かさず受講するだけでなく、ファドゥーツ(リヒテンシュタイン)、ヴェルグル、リンツ(オーストリア)、南チロル(イタリア)、ハンブルグ(ドイツ)などのヴィトマー氏のマスタークラスを受講しながら研鑚を積んでいる様子には見事なものがあります。

その間に少しずつ活動のワクを広げ、メサイアや、第九をはじめ、マタイ受難曲やヨハネ受難曲(こちらはペルト作曲)などのオラトリオのソロでは、深い感動的な表現で聴くものを魅了しました。このように精進にいとまのない人ですが、一方では人懐っこく、気さくで彼女が友達になれないような人は誰もいないのではないかと思えるようなキャラクターの持ち主です。

今回もバヤンの名手シェヴチェンコ氏と共演しますが、彼との出会いも確かウィーンでの演奏会がきっかけで、その後何度か共演の音楽会が実現しました。声楽家としてやっていくには天性の声や音楽性があるだけでなく、たゆみない努力が生涯要求されます。

私は高山さんにそのような声楽の王道を、しかし高山さんらしさを堅持し、高めながら一歩一歩歩いていって欲しいと思っています。

全日本合唱連盟副理事長

仙台バッハ・アカデミー音楽監督
作曲家、合唱指揮者 今井邦男

 

2006年06月09日 

2006.06.09| 伝田正秀

私のヴァイオリン・メモ(6)『チェロ今昔物語』

今回はチェロのお話をしましょう。今では常識になっているチェロのエンド・ピンが楽器に取り付けられたのは、二十世紀になってからで、それまでは、ボッケリーニのバロック時代からヴィオラ・ダ・ガンバ同様、両足で楽器を挟みつけて奏かれていました。

その上、今にして思えば、全く滑稽な話ですが、左手を拡げないように、分厚い本を左の脇下に挟んで練習をしたというのです。

その理由というのが全く滑稽にも、オーケストラ・ピットの中で場所をとらないようにというのです。これを打ち破ったのが、かのチェロの神様たるパブロ・カザルスで、彼の登場以前は、チェロの独奏というもの自体がすたれておりました。

カザルスの功績で顕著なのは、それまで埋もれていたバッハ作品を掘り起こしたことにあります。それまでは、チェロに限らず音楽界全体が、バッハを忘れていたというのが実状でした。十九世紀末から二十世紀の初めまで、コンサートと言えば、ロマン派の作品に決まっていた、と言われています。

チェロの作家に言及すれば、ストラディヴァリは大きなサイズと小さなサイズの二通りのチェロを作りましたが、市場価格で見ると、ストラディヴァリの作品と肩を並べて彼の弟子であった、ドミニコ・モンタニアーナがヴェニスに移ってから作ったものが大変高価になっています。

ともかくヴァイオリンよりもチェロの古名器というものの絶対量が少なく、それは、ヨーロッパが幾たびの戦禍にみまわれたかを考えると自ずと分かることです。チェロを一台抱えて逃げまどうのがいかに大変なことか、お解りいただけると思います。ちなみに、ヴァイオリンなら、サムソナイトの大型スーツケースに六台は入るのですから、コントラバスの古名器がさらに少ない、ということは言うまでもありません。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

2006年06月09日 

2006.06.09| 高山圭子

初めまして。このフェスティバルにピアノで参加させて頂きます石川祐介です。

仙台市で、宮城県沖地震の前年に生まれ、高校まで仙台に住んでおりました。その後山形. フランスのパリ、富山と経まして現在は東京に住んでいます。改めて書いてみると色々な土地に住んだなぁ、と実感します。

全ての土地が良い思い出で、引越の度に出会う新しい環境が現在ある僕の音楽観に大きく影響したのだと確信しています。僕の場合、素晴らしい音楽から影響を受けることはもちろんですが、音楽以外のことからも大いに影響を受けるみたいです。それは日常生活であったり、風景、建築物、テレビ番組であったりゲームなど多種にわたります。

ある作品を演奏しているときに、「あ、なんかこの部分は!!」と思ったのが、 ファイナルファンタジーの とてもファンタジックな場面であったり、ある建築物の壮大さを真上から覗いていたり。日常で経験できないような空想じみたことを、音楽と照らせ合わせてイメージする傾向があるようです。軽い妄想癖なのでしょうか。いや、しかし、音楽には少なからずこういったことが必要であるのだ、と言い聞かせております。雑学、そしてイマジネーション。即ち引き出しの数が多ければ多いほど人生においても豊かになると思いますし、何より得だと思います。

さて、そうなるとどのような音楽につながるのか。

これは皆様がどのような耳で聴いてくださるかにかかっております。

では、10月のコンサートでは高山さんとどのようなイマジネーションを創造できるか、お楽しみに!!

ピアニスト石川祐介

2006年06月08日 

2006.06.08| 伝田正秀

私のヴァイオリン・メモ(5)『ヴァイオリニストは馬何頭?』

ルネッサンスからバロックへ、といったころのお話。当時の弦楽器の王様はまだ撥弦楽器(指などで弦をはじいて音を出す楽器)のリュート。弓で弾く擦弦楽器は搖籃期を迎えたばかりでした。

ルネッサンス・リュートは、通常一二弦六コース(各弦が二本ずつ一組で、ユニゾンかオクターヴに調弦されているもの)で、この頃は高音から低音まで全部の弦が羊腸弦(ガット)。この羊腸弦というしろもの、湿度の上がり下がりで、しょっちゅう狂ってばかり。その上当時はチューニング・ペッグ用の便利なスムーサーなどもなかったので、これは大げさでなく、三分くらいの小品を弾くのに、チューニングに三時間かかったといいます。

そして、やがて時代はバロック期。どうしたものか、ただでさえ弦の数が多くて困っていたのに、バロック・リュートという、気違いじみた?十コース二十弦だの、それ以上などといったものが出現したのです。おまけに、それを弾くリューティストなるものを、ステータス・シンボルとして召し抱えるのが各地の王侯貴族の間で流行しだしたのですからたまらない。このリューティストのお抱え費用が実に馬三頭分であったそうです。

さて、これを現代に置き換えてみたとして、大変失礼な例えですが、パールマン氏を抱えるには一体、馬(勿論サラブレッド?)何頭分になるのか、どなたか試算なさっていただけないでしょうか。

ま、今は、お抱えで一握りの人が楽しむのではなく、コンサート・ホールというものがあり、多くの人が一緒にパールマン氏やミドリ・ゴロー(編集部注:ミドリ・ゴトーが正解でした。打ち間違えお詫びいたします)嬢の演奏を楽しめるのですから、本当に良い時代ですね。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

2006年06月08日 

2006.06.08| 高山圭子

今回共演させていただくピアニストの石川祐介さんとは、昨年の秋にとあるレストランで出会いました。石川さんのことはいろいろな方から聞いていたのですが、実際お会いした事はありませんでした。

彼と一緒に食事をしていた方は、私の知っている方で、隣の席で、一緒にお話をしているうちに、変な話ですが、笑いのツボが一緒だったので、なんとなく、「この人のピアノと合うかな」と思って、「もし機会があればご一緒に」という話になったのです。

寺の孫娘だからかもしれません。自分で言うのもなんですが、私の感はなかなか当るのです。他の人から見たら、適当に見えるかも知れませんが、結構この感は自分で信じているんですよ。で、結局当りました!!彼は本当に素晴らしいピアニストです。今回も私とだけでなく、仙台フィルのトップチェロ奏者原田さんとも共演されます。こちらもお聴き逃しなく。

私、笑いのツボだけでなく音楽のツボも合うというところを秋にはお見せしたいです。

高山圭子(アルト)

2006年06月07日

2006.06.07| 伝田正秀

私のヴァイオリン・メモ(4)『クレモナ王朝の衰退』

クレモナは、ミラノから南東に約七〇キロ余り、ロンバルディア地方の小都市で、その歴史は紀元前三世紀にさかのぼることができます。何の変哲もない田舎町が、なぜヴァイオリン製作のメッカとなったのか、その必然性は何もありません。

これはあくまで推測の城を出ませんが、十六世紀にこの地の貴族であるアンドレア・アマティという好事家が、ヴァイオリン製作に異常なほど興味を示し、ヴァイオリン作りを始めたこと。そして十七世紀に、彼の孫であるニコラ・アマティが、祖父の趣味的なヴァイオリン製作を立派な地場産業として定着させ、ストラディヴァリウスを始めとする沢山の弟子を育てたことが、クレモナをしてヴァイオリン製作のメッカとしたのだと考えられます。

しかし、ヴァイオリンの産地としてのクレモナの栄光は約百五十年しか続かず、クレモナ育ちのヴァイオリン職人はイタリア各地に散ってゆきました。

さて、このヴァイオリンにおける『クレモナ王朝』はなぜ衰退したかを考察してみますと、クレモナの黄金時代は、フィレンツェのルネッサンス期、及びウィーンの古典主義音楽の時代が頂点を極めた時と期を一にしますが、これらの衰退とクレモナとが運命を共にしたことは、まぎれもないことです。

しかし本当の理由は、ヴァイオリンの生産過剰と、楽器及び音楽に対する時代の趣味の変化によって、ヴァイオリンのブームが去ったからだと考えるのが、最も妥当であると思われます。

そして、クレモナの最後の名工であったローレンツォ・ストレオニーは、一八〇二年に没したのでした。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

2006年06月07日 

2006.06.07| 高山圭子

私は、演奏活動の他に、いくつかの合唱団を指導していますが、小学生の合唱団、高校生、20代、5、60代の方たちと、本当にいろいろな世代の方たちと音楽を通してお付き合いをさせていただいています。私の理想は、その年齢にしかできない音楽を作る事です。

コンクールなんかを聴きに行くと、プロ顔負けの演奏をしている子供達がいます。もちろん素晴らしいことですが、子供なのに大人みたいな声を出して歌っているのを聴くと、少し残念な気がしてしまいます。子供には子供にしか出せない声や、子供にしかできない音楽があると思いますし、できればそれは壊さないでその中で最善の演奏ができたら最高だと思うのです。

私がここ何年かお付き合いさせていただいている高校生の合唱団があります。そこの子供達は、実際歌の技術は必ずしも上手いとは言えません。ですが、演奏を聴いていると、とても心を動かされます。彼らが、純粋に音楽が好きなんだということが伝わって来るのです。ですから、彼らのコンサートで、お客様はみんな感動してくれます。

音楽と言うのは本来こういうものであって欲しい、と思ってしまいます。ともすれば、どうしても技術だけに走りがちになってしまいますが(もちろん技術は大事だと思いますけど)、でも、技術だけでは音楽ではなくなってしまうような気がします。そもそも、音楽は作曲者が心を動かされ、それがメロディーとなって現れてきたものではないでしょうか。私自身、人の心を動かす力を持つ音楽に感動し、それを伝えたくて歌い手になったのです。秋のコンサートで私はそれをどれだけ伝えることができるのでしょうか。

乞うご期待です。

高山圭子(アルト)

2006年06月06日

2006.06.06| 伝田正秀

私のヴァイオリン・メモ(3)『失われしヴァイオリン』

だいぶ昔の話になりますが、カーネギーホールの楽屋から、フーベルマンのストラディヴァリウスが盗まれた、という話が大々的にマスコミに取り上げられた事がありました。事件がもうすっかり忘れ去られた頃、ある老婦人が、「このヴァイオリンが、フーベルマン・ストラドなのでは?」と名乗り出て、この盗難事件は何十年ぶりに解決したのでした。

その婦人が言うのには、「私の夫はヴァイオリニストでした。そして彼は大統領のパーティー等でも奏くような一流の腕を持っていました。ところが彼が死の床についたとき、私にこう言ったのです。
『あのヴァイオリンは何とかしなければ!』
そしてなおもそのヴァイオリンについてこう話したのです。

『私のある友人が、みすぼらしい格好で私の職場に訪ねてきて、<どうしても百ドルで買って欲しい>とすがりつかんばかりに言ったんだ。私はそのヴァイオリン・ケースを開けて、ちょっと見ただけで、このヴァイオリンはただのヴァイオリンではない、とすぐに気づいたので、そう言おうとすると、その友人は、シーッ、と唇に手を当てると、私の手から百ドルを奪い取って、その場から消えたんだ!』と言うのです。

私は、夫に聞きました。『その人の名は何と言うの? お歳は? 人相と特徴は?』と、私は夫を質問攻めにしました。すると夫は私の質問に答えたわけですが、その人相や特徴が、まるで、なんと夫そっくりなんです……。」
でもこれはちょっといいお話でしょう。

ヴァイオリン製作家 中澤 宗幸

2006年06月06日

2006.06.06| 高山圭子

最近私は、専らドイツ歌曲をレパートリーとして歌っていますが、そこには私の先生の存在がなければありえないことでした。私の先生は、スイス人のバーゼル音大の先生だった方ですが、私はこの先生に出会ってから音楽の楽しさ、素晴らしさ、歌う事の喜びを感じることが出来るようになりました。

それまでは、「練習しなくてはいけない、歌わなくてはいけない」だった私の歌が、練習したい、歌いたいに変わったのです。(もちろん、練習したくない時は今でもありますが・・・)他の人にとってはどうかわかりませんが、私にとっては、先生は人生にとっての救世主とでも言いましょうか、そのくらい偉大な方なのです。その先生と出会わなければ、私は音楽をやめていたかもしれないですね。

もちろん音楽だけではないと思いますが、人生というのは、出会いによって大きく変わるものですね。私は幸いにも素敵な人達に出会う事ができて本当に感謝です。

話は変わりますが、私は飛行機が嫌いで、日本からヨーロッパへ行く時はあきらめますが、大陸続きのところはほとんど電車で移動をしています。飛行機嫌いと言えば思い出すのはチェチーリア・バルトリ。彼女はあまりの飛行機嫌いのため、日本にもなかなか来ることが出来ないようで、今年の日本公演も13年ぶりとか。ちなみに彼女は、先生の息子さんでチューリヒ歌劇場を拠点に世界で活躍するバリトン歌手の、奥様でもあります。

高山圭子(アルト)

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