震災は全てネガティブな力だけで終わっただけではないと思います。
ポジティブな力も生みました。
この震災で助けたり、助けられたりし、改めて人の結成力の強さや、人間愛の大事さについて学びました。
東北、日本を代表する宮沢賢治さんはこう、ポラーノの広場という物語で訴えました。
ユートピアは探し求めるものではなく、自分たちの手をつなぎ困難を乗り越えていく心の中にある。
つまりユートピアとは手をつなぎ助け合う精神がある社会である。
被災して、宮沢賢治さんの言っている意味が理解出来た気がしました。
根本的に日本の良さはやはり団結力であり、手と手をつなぎ困難を乗り越えていく、そしていけるのが日本人だと僕は思います。
これからも復興に向けて、日本人の良さを生かし、みんなで手と手をつないでいけばどんな困難も乗り越えられると思います。
髙橋正典(バリトン)
今日は用事で表参道に行ってきました。
表参道に行くと仙台の定禅寺通に行っている気分になります。
表参道を知っている方は是非仙台の定禅寺通に行ってみてください。
歩道に植えられている木々がとても似た雰囲気を出しています。
表参道というと明治神宮があります。
そこに清正の井戸というパワースポットがあって、力をいただいてきました(笑)
パワーが溢れている今、頑張ります!
菅原望(ピアノ)
こんにちは。エレクトーンの神田将です。
ところで、みなさまはふだん、どんな音楽を聞きますか?
私は音を出す方の立場なので、弾かない時はなるべく無音の中で過ごすよう心掛けていますが、コンサートに出掛けるのは大好きです。
音楽には、穏やかな曲から楽しい曲、悲しい曲など、人々のあらゆる感情を表した作品がたくさんあり、私たちはそれをいつでも気軽に楽しむことができます。
昔のように、音楽を聞く機会が非常に限られていた時代と比べると、とても恵まれていますね。
最近は明快で馴染みやすい音楽が好まれる傾向にあり、クラシック音楽の真価は忘れられつつあるようにも感じられます。
聞けば聞くほど味がでるのがクラシック音楽の魅力のひとつですが、それを実感するほどに聞き込む機会がないのが現実なのかもしれません。
クラシック音楽が長い時代を生き抜いてきたことは事実ですし、その間に、数え切れないほどの人によって演奏され、無数の人々の心を揺り動かしてきたことも事実です。
こうして繰り返し演奏される間にその音楽は洗練を極め、ミケランジェロやダヴィンチの作品同様、次の世代に完ぺきな状態で受け継ぐべく遺産となりました。
優れた文化遺産は、現代の私たちに先人の英知を伝えてくれるものであり、音楽もそのひとつです。国家の危機に瀕して書かれた曲、無念や失意の中で自らの血を絞り出すようにして書かれた曲、あるいは大自然の美しさと畏怖を織り込んだ曲などなど。
そうした作品は、はじめ、耳に心地よくは響かないかもしれませんが、実は、困難や恐怖を乗り越えるために必要なものを教えてくれるのです。
ある時、気の置けない友人が私にこういいました。
クラシックなんて自分には必要ない。
たとえ友人であっても、人の好みに他人が口出しするべきではありませんが、ちょっとだけ反論しました。
満ち足りた今のおまえには確かに必要ないかもしれないけど、人生には自分の力で乗り越えられないような出来事が1度や2度はあるもの。
その時、偉大な音楽がきっと必要になるから、名曲のひとつやふたつは知っておけ。後に、彼は海の向こうに音楽祭を見に行くまでになりました。
今年のせんくらで何を演奏するか、私はとても悩みました。
ただパーっと明るく楽しいひと時を、というのでもいいのかなと思いましたが、それだけではみなさまに失礼ですよね。
ワクワクするような楽しさや、未来に向けた上昇気流が感じられつつ、深く、深く、心に刻まれる音楽を。そんな思いで組んだ4つのプログラムです。
どうぞ受け止めて下さい。
僕でさえ愕然としましたが、僕以上に愕然としたのは義父でした。
家は三階建てで、一階に義父が営んでいた接骨院があり、二−三階は二世帯住宅になっています。
家は義父が生涯をかけて建てた家でした。
そこには思い出も、気持ちも蓄積されていました。
ですからそのショックと言えば想像を超えるものでした。
最近聞いた話なのですが、自宅の斜め向かいに内科があり、内科の上から先生が津波の時に様子をみていたそうです。
自宅は道が重なる角にあり、津波は道を通って流れてきたそうです。
そして斜め向かいのかまぼこ屋さんの後ろの建物が津波で流されて、自宅にある看板を直撃したそうです。
もし、看板がなければもしかしたら家の被害はもっと大きかったと思います。不幸中の幸いです。
3月12日、自宅の津波の被害をみて、初めて自分は被災者なんだと感じました。
自宅は暫く使えなかったので、親戚の家に泊まらせて頂いたり、車の中に泊まったりして、最終的には接骨院の別館が下馬にあったので、そちらの方で自宅に戻れるまで3週間近く避難しました。
髙橋正典(バリトン)
突然ですが、僕には集中力が足りません(笑)
練習していてもすぐに他のことに気がいってしまいます。
が、最近はそうも言ってられません。
本番がつまっていて、曲に追われる毎日を送っています。
僕の住んでいる所では、この時期週末になると西武園ゆうえんちの花火を見ることが出来ます。
それが練習で疲れた体への癒しとなっています。
さて、今日も練習練習!!
菅原望(ピアノ)
こんにちは。エレクトーンの神田将です。
私が初めてせんくらに出演したのは2009年。
それから毎年呼んで頂き、今年で3回目となります。
初登場の時は「え?エレクトーンでクラシック?」と、せんくらファンのみなさまを驚かせてしまったかもしれませんね。
どちらかというとポピュラー音楽を個人的に楽しむための楽器というイメージが強いエレクトーンですが、実はクラシック音楽への取り組みにも歴史があります。
とはいえ、ヴァイオリンやピアノの歴史に比べたら、まだ始まったばかり。注目されるようになったのは、ごく最近です。
そんなエレクトーンの可能性に、いち早く気付いてくれたのがせんくらでした。
2009年当時、私はどこか名の知れた音楽祭に出られないかと、チャンスを模索していました。
自分の名誉のためでなく、みなさまに私が感じている楽しさをお届けしたいのと、エレクトーンの未来のためというのがその目的です。
でも、前例のないことはなかなか受け入れてもらえません。
半ば諦めていた時、チャンスを与えてくれたのが、仙台クラシックフェスティバルと、中国上海国際芸術祭だったのです。
いずれのフェスティバルも、不思議な楽器を扱う無名の奏者を快く迎え、名だたる演奏家たちと同等のステージを用意してくれました。
こうして舞台は整いましたが、何を演奏すればいいのか、自分の演奏は受け入れられるのかといった不安もありましたし、有名な方々のことを考えるだけでビビりまくり。
でも、当日、最初のコンサートが始まった瞬間、お客様の温かさを一心に感じながら、演奏することの歓びを噛みしめている私がいました。
スタッフの方々、ボランティアの方々にも本当に親切にしていただき、理想的なコンディションで舞台に向かえたことにも感謝しています。
リラックスした雰囲気の中で、気軽に名演奏を楽しめるせんくら。
これまでのせんくらもすごいのですが、特に今年は厳しい状況の中での開催ですから、スーパーすごいせんくらですよね。
ぜひご一緒に、思い切り楽しみましょう!
今回初めてせんくらに出演させていただく菅原望です。
東日本大震災によって傷ついた皆様の心を元気に出来るよう、精一杯演奏させていただくつもりです。
今年はリストイヤーということで、僕はリストのピアノ協奏曲2番を演奏させていただきます。
リストのピアノ協奏曲というと1番のほうが有名ですが、2番も負けないくらい素晴らしい曲です!!
難しさも負けていませんが……。
リストに恥じない演奏が出来るよう頑張ります。
菅原望(ピアノ)
仙台のみなさま、そして全国のせんくらファンのみなさま、お久しぶりです。
エレクトーンの神田将です。長い長~い一年ぶりですね。
あの日を境に、すべてが変わってしまった。
かけがえのないものを失ったり、描いていた未来が壊れてしまったり。
途方もない悲しみを抱えたままの方々も、たくさんいらっしゃることでしょう。
心よりお見舞い申し上げます。
私の人生もすっかり変わりました。
演奏する機会を奪われるのは、演奏家にとって何よりも悲しいことです。
直後から公演の中止が相次ぎ、この先どうなるのかなという不安だらけの日々。
決行された演奏会でも、複雑な気持ちのまま弾いていました。
しかし、ここ2ヶ月ほどは、これまで私がいかに恵まれていたかや、今後何をなすべきかについて、深く考える時間を与えられたのではないかと考えるようになりました。
かつての私は心を込めて演奏することだけで精一杯でしたが、例えば学校巡回コンサートで音楽を純粋に聞いてくれる子どもたちや、音楽家を目指して日夜稽古に励む若者たちと接する機会が増えるにつれ、私にできることはまだたくさんあると気付いたのです。
そんな矢先に飛び込んできた「せんくら2011開催決定」の知らせ。
でも、例年より規模を縮小するとのことでしたので、おそらく私の出番はないだろうと思いつつも、今年も仙台の街が音楽に彩られるのだと想像しただけで嬉しくなりました。
それからまたしばらく経ってから、出演させてもらえることになったという連絡が入り、私は甲子園で優勝した球児のように歓喜しました。
ああ、仙台のみなさまは私の音楽を求めて下さった。
このお招きに、私はどんな演奏でお応えしようか。
次の瞬間からプログラムを練り始め、今だからこそお聞かせしたい音楽を厳選しました。
今も当日が待ち遠しくて仕方ありません。
私だけではなく、すべての出演者とスタッフが、今年のせんくらに特別な思いを込めてのぞみますが、ご来場のみなさまも特別な思いでお聴き下さることでしょう。
そして、その場に居合わせるからこそ感じる魂のふれあいや、奇跡のような心の変化が、きっとすべての演奏会にあふれることでしょう。
さあ、今年の秋は、せんくらで音楽のシャワーを全身に浴びて下さい。
きっと新しいパワーが泉のように湧きあがってくると思いますよ。
神田将(エレクトーン)
皆様はじめまして。
私、高橋正典と申します。
生まれは千葉県市川市ですが、色々な場所を経て2009年12月から宮城県塩釜市に住んでいます。
田舎からオペラ歌手がやってくる、をモットーに活動しております。
昨年に引き続き今年もせんくらに出演させて頂ける事になりました。
宮城県民として心から感謝しており、宮城県にも変わった人がいるというのをアピール出来ればと考えております。
今年のせんくらは第九という大役で出させて頂けるのを心からの喜びと感じております。
ソプラノの菅英三子さんとテノールの水口聡さんと初共演になり、プライベートでもお世話になっております、アルトの高山圭子さんとご一緒させて頂けるのを、首を長くしてまっております。
このコンサートは一回きりですが、一回にすべてを集中して頑張りたいと思います。
指揮者は山下一史マエストロ。
マエストロ山下とは仙台オペラ協会のオペラ「鳴砂」でお世話になりました。
とてもヴァイタリティー溢れた情熱的なマエストロ。
そのエネルギーは一体何処から出て来るのか練習の度に考えていました。
仙台フィルハーモニー管弦楽団との共演となり、宮城県の音楽家同士で熱い演奏が出来ればと願っております。
これから数日間ブログを書かせて頂きます。
どうぞ宜しくお願い致します!
高橋正典(バリトン)
震災−1 2011.08.19
震災から五ヶ月と一週間がもう過ぎ去ってしまいました。
僕の中で時間は震災後、時間の感覚が少々鈍ってしまっているみたいです。
あっという間の様な、長かった五ヶ月と一週間となりました。
震災が起こった時は、僕は仙台中央音楽センター504号室にいました。
その週末に予定されていたバッハアカデミーのコンサートに向けて、練習を行っていた最中での被災でした。
大きな事故や災害と言えば、9−11のアメリカで起こった時、僕はアメリカにいました。
ロサンゼルスに当時住んでいたものの、実際に体験したとは言いがたいものでした。
今回の震災は、いままで経験した事がない事が自分におき、現実として受け入れるのに時間がかかりました。
3月11日は停電などで仙台から自宅の塩竈まで戻るのには難しいと考え、レストラン・パリンカに一泊させて頂けるようにお願い致しました。
そして3月12日に塩竈に戻りました。
家族は親戚の家に泊まらせて頂いており、実際の家には帰らず、親戚の家に直接いきました。
利府街道を通って塩竈まで戻りましたが、途中火力発電所が燃えているのをみたり、家が崩壊しているのをみたりして、改めて地震の凄さを感じました。
無事に家族と会えましたが、どうやら津波が自宅まできたらしいとの事でした。
危険を承知で自宅まで歩いていく事を決めました。
道中深いヘドロの中、瓦礫が散らばって道がなくなった道を歩きながら家に向かいました。
家の外装は悪い状態とは言えませんでしたが、自宅の一階が天井下10センチまで津波がきて、窓ガラスは割れ、ヘドロとゴミで一階は覆い尽くされていました。
中には50センチを超える大きなボラも家の中にいました。
そんな状況のなかただ僕は愕然とするしかありませんでした。
髙橋正典(バリトン)
あっという間でしたが、私のブログも今日で最後となりました。
7日間震災や生まれ故郷の仙台に対する自分の想いを綴ることができ、感謝しています。
ありがとうございました。
最後にせんくらに対する想いを。
震災から5ヶ月が過ぎ、街は元気を取り戻してきているように感じますが、今なお行方不明者や避難生活を強いられている方がたくさんいます。
被災者の方々が負った悲しみが癒える時間は、想像を超えるものだと思います。
音楽の力でできることは、それほど大きくはないかもしれません。
その中でも、私は微力ながら力になりたい、その一心です。
今回の選曲はとても悩みましたが、鎮魂の祈りと復興への希望をテーマに選びました。
震災に遭われた方々には、この先、人一倍幸せになって頂きたい、その願いを込めて演奏したいと思います。
http://sencla.com/performer/p04.html
それでは、10月1日にお会い出来ることを楽しみにしています!
佐々木梨花(ヴァイオリン)