僕がチェロを6歳で始めたちょうどそのあたり、1頭の犬が我が家にやってきました。
ビアデッドコリーという中型犬で、名前はクララ・シューマンから『クララ』と名付けました。
当時の僕は体が小さかったため、いつも僕の事を心配していたようにおもいます。
僕が一人でどこかに行こうとすると必ず付いてきて、病気になればずっとそばにいてくれ、泣いていると顔を舐めてなぐさめてくれ、本人(?)は姉のような気持ちだったのかもしれません。
そんなクララも14歳ととても長生きしてくれ、亡くなってしまった今でも心の支えとなっています。
今僕は当時の家に住んでいるのですが、楽器を弾いているとふと気配を感じる気がします。
と、三日間今までをを振り返ってブログを書いてきましたが、色々な人や犬に支えられて今の自分があるのだと実感しています。
大学を卒業後、ドイツのライプツィヒ音楽演劇大学大学院へ留学をしました。
ドイツで師事した先生はゲヴァントハウスオーケストラのソロチェリスト、クリスティアン・ギガー先生。
ひたすらチェロを愛し、チェロの事を1番に考える本当に真面目な方でした。
練習嫌いな上にドイツ語が全くできない僕に、1日の練習スケジュールを立ててくださったり、週に数回のレッスンと更にそのレッスンでの気付いた事をメールしてくださったり、とても丁寧に接してくださいました。
大学院2年在学中はゲヴァントハウスオーケストラの学生契約として、そして卒業後はゲヴァントハウスオーケストラアカデミーに在籍しました。
アカデミー生は各セクションに1人、2年間在籍することができます。
楽団に籍を置きながら、団員同様にオーケストラの業務をこなし、それに対して月々決められた奨学金が楽団から支払われます。
自分専用のロッカーもホールの楽屋に用意されるなど、ほぼ団員と変わらない扱いを受ける事ができます。
ゲヴァントハウスオーケストラの業務は、シンフォニーオーケストラとしての仕事の他にも、 オペラ、また、バッハの勤めていた聖トーマス教会でのカンタータの演奏など、たくさんの業務をこなしていかなければなりませんでした。
そんな中で、まだコミュニケーションもままらない僕をチェロセクションの人が優しく支えて下さり、順調にレパートリーを学んでいくことができました。
オペラ『トスカ』の本番ではあの有名なチェロ四重奏の部分を先生と弾かせて頂ける機会がありました。
先生の同僚として、一緒の舞台でソロを弾けた嬉しさは今でも忘れられません。
せっかく在籍できたし、このままドイツに残るつもりでいた僕ですが、ここで転機となったのが中国と日本国内を回るアジアツアーでした。
久しぶりに帰ってきた日本のご飯の美味しさ、店員さんの丁寧さ、日本語が通じる喜びなどに触れて一気に帰りたくなり、先生を説得した上で、地元である仙台でオーケストラに入ったのでした。
みなさんこんにちは、チェロの吉岡知広です。
僕はここ仙台で育ったのですが、
紆余曲折を経て戻ってくることになるとは我ながら驚きです。
幼稚園から中学生まで仙台で暮らし、のびのびと育ってきました。
チェロは6歳の時に始めましたが、もともと音楽で食べていくことは全く考えておらず、
「せっかく長く続けてきたしなぁ」という軽い気持ちで桐朋音楽高校を受験しました。
今思うと15歳で東京に出ると言った僕に、「好きな事をすれば良い」と後押ししてくれた両親の理解はすごいものだと感謝しています。
そのような軽い気持ちで入ってしまったので、僕は典型的な劣等生でした。
練習時間は1日30分未満。当然上手くなるはずもなく、ダラダラと過ごしていきました。
そんな日々の中転機となったのが、同級生から弦楽四重奏に誘われたことでした。
室内楽は仲間と一緒に一つの曲を作り上げていきます。そのためにリハーサル重ねるのですが、そこで自分は練習の基本すらしてこなかった事に気付かされました。
まず1日にこんなに楽器を弾くものなのか、こんなに考えながら、一つ一つ取り出し、考え、ゆっくり丁寧に反復していくのかなど仲間から学ぶ事が本当にたくさんありました。
そこからほぼ毎日リハーサルをした結果、学内外でも評判のグループとなっていったのです。
カルテットを組んだ事でまず自分の事を色々な人に知ってもらえ認めて頂けたこと、今まで心配されるくらいだった自分が成長できた事、なにより最小のオーケストラともいえるカルテットの経験を積んだ事により耳を養っていけたことは今の自分の強みであり、支えであると感じています。