私は、ピアニストというのは手職人だと思っている。
若い時からずっとそうだった。
音楽を手で触るという感覚は面白い。
手で音を撫で、愛しみ、大事にしていくのだ。
いや、愛しんでというのは一面的な表現である。
ごりごりと握り、投げつけぶつけ放り投げもする。
作曲家の生涯だとか作品の構成とか歴史といったものに興味を持ったり考えたりしたことはない。
あるのは作品だけ、その音だけである。
音楽の意味、なにを表現しているのか、視覚的なイメージがあるのかと訊かれることもよくあるが、それも言葉にすることは難しい。
ある数学者の文章に面白いことが書いてあった。
「研究の成果を本にしたのだけど、数学の証明が800頁にもなって、数学者でも読んではくれない。
では、それが複雑で技巧的なことかというとそうではなくて、単純で自然なことをやっている。
伝達しようと思うと、こうなってしまうのが不思議です」というのだ。
きわめて単純な事例だけど、パソコンなどの使用説明書などを読むと複雑極まりなくて到底理解しがたいが、実際にやってみると簡単で分かりやすいのに似ているだろうか。
音の中にも沢山の情報が詰め込まれていて、辛抱強く探っていくと、それがある日、ああ、そうなんだといって姿を現してくる。
先日、エジプトのツタンカーメン大王のミイラを長年検証してきた結果が発表され、王が虚弱体質で、マラリアによって若年で死亡したことや、一緒に埋葬されていた者たちとの血族関係なども明白になったことが述べられていた。
同じころに、数億年前に恐竜が絶滅したのは小惑星の地球への激突が原因だということも報じられていた。
私は中学生の頃一時、考古学者になることを夢見て考古学研究会なるものに所属していたこともあるし「歴史研究」という月刊誌を購読していたので、こうした情報が目に入りやすいのかもしれないが、云いたいのは、音楽は音や音構成の中にすべての情報が詰め込まれているので、音を手で探っていれば、いつかはその全容が見えてくるものということだ。
無になることによって、本当のことが見えてくるのだとも思う。
舘野泉
2012年から約2年を掛けて行なってきた<舘野 泉フェスティバル― 左手の音楽祭>は昨年11月10日の東京オペラシテイーのコンサートをもって無事終了した。
左手作品のみによる音楽祭など前代未聞のことで無謀とさえいわれもしたが、全16回が毎回異なるプログラムで構成され、手応え充分な充実した音楽祭となった。
左手のピアノ・ソロ作品のみならず三手連弾曲、さまざまな編成による室内楽曲、そして幾多のピアノ協奏曲など、限りない可能性を含んだ立派な作品がこの音楽祭の間に誕生し、豊穣な稔りを日本の音楽史の上に刻みこむことが出来た。
日本を代表する作曲家達に加え、アルゼンチン、アイスランド、アメリカ、フィンランド、エストニアの作曲家達からも多くの立派な作品が寄せられた。
これまで「左手の文庫」募金への寄付で、新作の誕生を応援してくださった方々に感謝。
改めて皆様に深くお礼を申し上げたい。
「左手の音楽祭」が終わって半年がたっても、多くの作曲家からピアノ協奏曲、ピアノソナタ、室内楽作品などの新作が寄せられており、今後はそれらを演奏する機会も探っていきたいと考えている。
今年の「せんくら」でもいくつかの作品をご披露できるのは嬉しいこと。
病に倒れてからもう12年の歳月が過ぎる。
元気になって毎日ピアノに向かい、音を紡ぎあげてゆくことが出来るのを、ただただ有り難く思っている。
音楽が与えてくれるものは、常に生き生きとし、日々豊かに変化変貌してゆく・・・その在りようを手で味わい、表してゆきたい。
「左手の音楽祭」で出会った実りを慈しみ、これからの活動がなにをもたらしてくれるのか、踏み出さないことには何も分かりませんが、喜寿を迎えたその一歩として。
舘野泉
6月15日から7月3日までドイツとチェコの演奏旅行をしてきた。
チェコではカルロヴィ・ヴァリーのオーケストラとラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲を共演。
このオケは今年創立180年を迎えたそうで、弦楽器群は非常にいい。
指揮者は常任のフランス人、マルティン・レベル。
丁度50歳を迎えたばかりで、非常に安定した指揮ぶり。
作品全体の見通しがよく、一緒に共演するのがとても気持ちがよかった。
ドイツではまずヴァーレン市でリサイタル。
そして6月25日にベルリンフィルのホールでヴァーレンとはまた違うプログラムでリサイタルをした。
これは東京とベルリンが友好都市となってから20年の記念として行なわれ、ベルリン・フィルも共催者として名を連ねていた。
千人収容のホールに聴衆は八百人。
プログラムはバッハ、スクリアビンのほかは光永浩一郎、吉松隆、近藤浩平、cobaと、この4年ばかりの間に作曲された邦人作品で、決して聴衆に馴染みの深いものとはいえなかったが、最後は全聴衆総立ちのスタンディング・オーベーションとなり、私自身も胸が熱くなるのを覚えた。
今年は第一次世界大戦が勃発してから丁度百年。
世界では勿論のことだが、特にヨーロッパ諸国ではそれを思う行事が数多く催されている。
ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲もまた、第一次世界大戦に従軍して右手を失ったパウル・ウィットゲンシュタインの委嘱を受けて書かれた。
私も今年から来年にかけて東フィル、N響、札響、日フィル、京響、仙台フィルなどと演奏していくことになっている。
まずは7月18日から20日までN響と東京、大阪、松山で。
2014年7月18日(金) 19:00 NHKホール
N響の夏
指揮:レオ・フセイン/NHK交響楽団/ピアノ:舘野泉
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
N響ガイド TEL:03-3465-1780
2014年7月19日(土) 16:00 ザ・シンフォニーホール
N響の夏大阪公演
指揮:レオ・フセイン/NHK交響楽団/ピアノ:舘野泉
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
キョードーインフォメーション TEL:06-7732-8888
2014年7月20日(金) 19:00 ひめぎんホール
第16回 NHK交響楽団松山定期演奏会
指揮:レオ・フセイン/NHK交響楽団/ピアノ:舘野泉
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
NHKサービスセンター TEL:089-921-1159
舘野泉