
《せんくら》を行う前には気がつかず、行ってみてはじめてわかったことが多くある。
ヘーゲル流に言えば「量は質を変える」ということかもしれません。
第1に聴衆についてですが、コンサートの梯子をする人が多く20も渡り歩くつわものも現れました。それでも3日間でせいぜい20が限界で101あるコンサート全体の5分の1というところです。どんなに効率良くまわっても聴けないコンサートの数が倍以上あることになります。そこで「これもあれも聴いた」でなく「これもあれも聴けなかった」という反応となり、他の気になるコンサートについて知り合いにどんなコンサートであったのか片端からたずねてみたくなる。その感想が人によってまちまちなものだから余計に気になってしまう。リサーチという大げさなことでなくとも「・・・はどうだった?」「私のほうは・・・だったわ」などと訊ね合う会話を各所で聞きました。ということは、《せんくら》は、批評家にとっても、コンサート・フリークにとってもすさまじい飢餓感を感じるイベントなのです。この飢餓感が、次の《せんくら》に足を運ぶエネルギーとなっているのではないでしょうか。
第2に演奏家サイドのことですが、“どこかで聴いたクラシック”というコンセプトはなかなか曲者でありまして、演奏家に新たな試練を課すことになっているようです。一種のコンクールの様に演奏家は意識するようです。音楽的テーマ設定の音楽祭と決定的に異なるところでもあります。プログラムの創り方にもよりますが、CDなどで散々流れている曲を弾かなくてはならない、聴衆と音楽家の関係が、従来のそれと違って聴衆の方が音楽家より優位な中で行われる。この関係の逆転は音楽家にとってコンクールのように感じる理由のようです。皆が聴いている曲をどう演奏するかは意外につらい課題で《せんくら》に招聘されたアーティスト同士のライバル心にどこか火がついているようにも見えます。こうしたアーティスト側の気持ちは、聴衆の期待感と交錯して《せんくら》独特の緊張感を生み出しているようにみえました。
第3は、主催者としてのことですが、地下鉄沿線といっても会場がこれほど多く分散して同時に行われる事業は他にありません。ホール・アテンダント能力が試されることになり、ここにも小さな競争があります。部・課長がいない中で、会場毎に自立化せざるを得ないわけです。担当者の負荷は半端でないと思いますが、走っているスタッフがいないと御喜さんにお褒めをいただいたように、ボランティアを含めスタッフの能力が確実についていることを確認できたことは嬉しいことでした。
この事業はまた今後の文化政策の新しい方向を占う意味でも重要です。つまり、これまでの「芸術文化の振興」に加え、「都市づくりに文化をどう活かせるか?」という視点です。今回行った「街中コンサート」や、「地下鉄駅コンサート」などの試みは、街中に音楽を溢れさせるという《せんくら》ねらいを表現するとともに、その認知度を高めることに大いに役立ったように思います。
しかし《せんくら》の「交流人口の拡大を目指す」というもうひとつの目的に対して結果は、圏外からのお客様より圧倒的に市内の集客が主でした。このことを改善しなければならない課題と考えるか否か私としては迷うところです。何よりもまず市民が楽しむ、それが本来的な祭りでないのか?そのことを積み重ねて何時かしら評判となり、共に楽しみたいと遠来のお客様も拡大していくというような長い目で考えてみることも大切なのではないかと思った次第です。
スタッフ・ボランティアの皆様お疲れ様でした。
志賀野桂一
(仙台市スポーツ文化部長、仙台クラシックフェスティバル運営副委員長)