昔ユダヤ人家族に4人息子がいると一人目はラビ、二人目は弁護士、3人目は医者、4人目は音楽家にする、と言う半分ジョーク、半分真実の時代があった。
そうすれば絶対食いっぱぐれがない、と言うわけだ。
ジュリアードの生徒を見ればどこの国が10-20年のうちに成長するかがわかる・・と言われていた。
なぜならそれだけの投資を次の世代にする国には将来があるからだ。
最初はたくさんのユダヤ人の音楽家達がヨーロッパからロシアから新天地アメリカにわたった。
ナチズムから逃れるために流れた多くの音楽家達の主流、ジンバリスト、ハイフェッツ、ホロビッツ、ピアチゴルスキー、
バルトーク・・・
たくさんいすぎて書ききれないほどの音楽家達が、そこで活躍して、また教育を始めた。
ジュリアードの先生方、ガラミアンなどもそのひとりだ。
カーテイス音楽院にはジンバリスト先生がいらしてそこで江藤俊哉先生は薫陶を受ける。
わたしたち「孫弟子」もその恩恵にあずかったわけだ。
そしてスターン、ズッカーマン、パールマンたちの時代、ユダヤ人真っ盛り。
60-90年代、たくさんの日本人たちがニューヨークに住んだ。
東京カルテットを作った原田幸一郎さん達、そのあと加藤知子さん、竹澤恭子さん 諏訪内晶子さん、・・五嶋みどりさん・・
ここも枚挙にいとまがない。
90年以降、韓国人達の活躍が目立つようになる。
また仙台でも優勝したクララ・ジュミ・カンを始めドイツと韓国、ヨーロッパと日本の両親を持つ若きヴァイオリニスト達も世界的に素晴らしい成果をあげている。
ハーフと言う言葉ではなくまさに「ダブル」の文化背景と絶えない鍛錬がもたらした結果だと思う。
今コンクールなどを聞くと、がぜんチャイニーズ系アメリカ人。
台湾系の人が多い、そしてうまい。
やはり台湾、中国ともにこれから台頭してくることは明らかだ。
一度シンガポールから来たヴァイオリニストを教えたことがある。
英語で教育を受けているから英語は完璧。
そのうえ漢字OK、なんと強い武器だろう。そしてなによりそのおおらかで爽やかな姿勢が良い。
今回仙台国際コンクールで優勝したリチャード・リン君は昨年ブリュッセル、エリザベートコンクールで聞いた。
まじめで深い音を出す。良い音楽家だと感心した。
残念ながらその時はファイナルには行けなかったのだがそのあといろいろ話をした。
今回仙台で再び会って「So nice to see you again」と開口一番満面の笑み。
誰より優勝を心から驚きそして喜んでいる笑顔は見ていて気持ち良い。
16歳のリ・ゼユ・ヴィクター。
実は直前に行われたモントリオールコンクールで私は彼を一位につけた。
なんと新鮮なチャイコフスキーのコンチェルトだっただろうか!
私も随分勉強させてもらった。
そしてわが国の成田達輝君、素晴らしい才能だ。
アジアにはこれからやるぞ、という気運がある。
南アメリカ、ブラジルに行った時もそう思った、怒涛のごとく鳴るオーケストラの音に唖然として思わず振り返ってしまった。
シベリウスのコンチェルトを弾いた際だ。
(Yuzunote ブラジル参照)
ブラジルを(環太平洋)としてしまうことには少し無理があるかもしれないが、将来はアジアから、あるいは南アメリカから、凄い人材がでてくるかもしれない。
そして日本はそういう国の憧れになるような先進国として、仙台は音楽の「中心」としてリーダーシップを取れればなあ~と夢見る。まんざら不可能でもない。
音楽家として食べていく事はますます難しくなっている。
しかし大元にあるのはキラキラとした瞳と好奇心だ。
いつまでも持ち続けたいと思う。
2013年6月 ブリュッセル
堀米ゆず子(ヴァイオリン)
仙台のセミファイナルの事だ。
数日仙台を留守にした審査委員の中に「帰ってきたらネットがつながらない」と言う人が何人かいた。
何をかくそう私もその一人だった。そしてその大変さ!
今またブリュッセルでネットがつながらない・・・
テレビも見られないと言う状態が続いている。
もうこの世の終わりだ!
夜になり電気がつくのが当たり前。
水道の蛇口をひねれば水が出るのが当たり前。
お湯にならないと大騒ぎする。
・・・・・・
震災後の数日間何もなかった生活。
それから自転車通勤をしたと言っていたうちは良いけれど、だんだんその物珍しさにも苦難が出てくる。
それより何より実際の食糧難で(痩せました)と友達は言う・・・
震災後の4月に帰った時だけ、成田から上野に向かう電車の照明が落とされていた。
みな肩を落とし、ヴァイオリンもなるべく人様の邪魔に成らぬよう持った。この感覚は70年代のものだ。
と・・・そのまま続くかと思いきや、6月には電気はこうこうと灯り、次の夏には自動販売機の灯りもいつのまにか元に戻っている・・・
原発・・・があれだけ恐ろしい事に成ることを体感したにもかかわらず再開・・・いや我々の生活が、その便利さが、電気がなくてはやっていけない事になっているのだ!
それでもちょっとの不便さで考えることがある。
きっかけ・・・というには余りに大変な思いをなさった東北の方々、そして行き場所のない憤り、怒り・・・
でも実はそれが底力なのだ。
そこで感じたこと、今持っている命、その大切さ・・
一度その事を思いっきり経験したことは大きいと思う。
私が昨年夏、フランクフルトでヴァイオリンを押収された時、ふらふらと税関を出た後それでも最初に思ったことがある。
「これは津波ではない。私はまだ生きている」
奥山市長がいみじくもおっしゃったように
「大変な時にこそ、音楽と言うものの力を感じました」
文化は憧れだ、とやはり宮城県出身の彫刻家、佐藤忠良さん、
音楽を渇望する仙台市民、心から応援します。
そしてせんくら、ありがとう!
2013年6月ブリュッセルにて
堀米ゆず子(ヴァイオリン)
飛行機に電車を乗り継いで仙台駅に着いた。
5月24日のことだ。
新しくホテルウェスティンにチェックインする。
高層ホテルだ。
震災の折、26階レストランの皿が一枚も割れなかったという…
28階の部屋に着く。
新しい作り、お風呂場も仕切られているが不透明ガラスで圧迫感がない。
テラス・・・には出られないのだが広々とした間取りは何と心地よいことか!安心できる。
ふと遠くを見ると・・・海岸が見える。
本来ならば、「あ!海だ」と思うところだが、被災地となり、音も人もなくなった光景は実際現地に行ってみなければわからないことだ。
忘れていたわけではない。
その大震災を乗り越えて仙台国際音楽コンクールは無事行われた。
いや、無事どころではない、私たちはホテルばかりではなく、3年ぶりに訪れた青年文化センターの音の響きにびっくりした。
以前残響が多すぎる等非難の声もあったこのセンターの音響は今日聞くモーツアルトにふさわしい豊な、そして素晴らしい響きに変わった。
そして各地からやってきた室内オーケストラの質の高さ、仙台フィルの(よくぞここまで来た)と感慨に堪えない響きに仙台人の底力を感じたのは私だけではなかった。
あたかも何事もなかったかのように・・・物事は進められ、しかしながら宗審査委員長の(講評)の折
「よくぞ皆さまこのコンクールを続けてくださいました。みなさんの音楽への深い理解、そして愛情を感じて私は心を打たれました」
との声が聞こえた時、胸がきゅんとした。
幾柄にも重なる修羅場、思い出、そして再び音楽をできる喜びに胸打ちひしがれた方も多かったと思う。
世界中から集まった若きヴァイオリニスト達。
16歳と言えば息子の年だ。
それで私たちがひくようなレパートリーを難なくこなす。
21歳と言えばまだまだ若いと思うのに彼らの間では5歳もの差がある!
いろいろな思いを残してコンクールは終わった。
改めて思う。復興、というのか底力というのか・・・
なんとも(すごいもの)を見せていただいたと言うのが正直な感想だ。
もう怖い事は何もない。前進あるのみだ。祝仙台市民!!
せんくらに向けてまっしぐら!
2013年6月ブリュッセルにて
堀米ゆず子(ヴァイオリン)