最近は、クラシック音楽がブームだなんてよく言われます。
もちろん昔からファンは確実にいましたが、「のだめカンタービレ」のようなコミックス、あるいは「熱狂の日」や「せんくら」のようなお祭り仕立てのコンサートをきっかけにして、ごく普通の感覚で「クラシック音楽」に興味を持ち、接してくれる人が増えたことは嬉しいことだと思います。
むかし私がクラシックを聴き始めた中学生の頃は、クラスに「クラシック好き」など一人いるかいないかという過疎の時代。同級生たちが音楽(要するにポップスです!)の話で盛り上がっている時、「キミの好きな曲は?」と聴かれ、うっかり「ベートーヴェンの7番」と答えたところ、まるで絶滅寸前の吸血鬼でも見るような目で見られたものです(笑)
それも今は昔の物語。今ではこの曲、(TV版「のだめ」のオープニングで使われたせいで)一時は携帯の着メロの第1位にランキングしたほどの人気とか。最近も、子供のためのオーケストラ入門コンサートでこの第7の一部が流れたところ、ほぼ全員の子供が「これ知ってる!」と叫んだのには感動しました。ベートーヴェン先生も草葉の陰でどんなにお喜びか。
そういった点だけを見ると、新しい聴き手も増えて色々な作品にスポットが当たり、なんだかクラシック音楽にも明るい未来があるように「一見」思えます。
でも、時々、後ろめたさを感じることも確かです。大作曲家たちが残した名曲がたくさんあるのをいいことに、その遺産を食いつぶしているだけでいいのか?と。
実際、過去の大作曲家たちが残した「名曲」という遺産は莫大なものです。それによっていまだに多くの音楽家たちが潤い、本場ヨーロッパから遥かに離れた極東の日本にすら、その「おこぼれ(?)」が満ち満ちているわけなのですから。
しかも、現代では、そういった音楽が実に簡単に、しかも安く手に入ります。映画やテレビからは背景音楽として流れ、コンサートのチケットやCDが格安で売られ、DVDや衛星放送で家に居ながらにしてオペラの特等席の気分さえ味わえる。それは、だれもが簡単に宝を享受できる、まさに天国のような時代と言えるのかも知れません。
ただ、前のブログでもちょっと書きましたが、音楽とは、過去から受け継がれてきた人類共通の「財産」であり、音という遺伝子で伝えられる「魂」そのものです。
それは、多くの音楽家たちが命を懸けて生み出し、育ててきた貴重なものです。しかし、それをどんなに素晴らしいものだと感じ、浴びるような無償の恩恵を受けても、私たちは彼らに感謝の意を伝えたり代償を払ったりすることが出来ない。
だとしたら、私たちの出来ることは、ただひとつ。その恩恵をしっかり受けとめ、私たちの時代の魂を添え、今度はそれを未来へ伝え受け継いで行くことです。
ですから、
私たち作曲家は今日も作曲し、
演奏家は世界各地で演奏し続け、
音楽を愛する人々はコンサートに通うわけです。
というわけで、一週間にわたったクラシック講座、・・・おっと、違った。ブログでしたっけね。これで、おしまいです。後半、少々熱く(暑苦しく?)なったことをお詫び申し上げます。
私は、作曲の本業のほかに、クラシック音楽紹介の本や原稿を書いたり、時には自分で(↑こんなふうな)イラストを描いたり、FMの音楽番組で解説をしたりする仕事もしています。
まあ、本業の作曲ではちっともお金にならないので(交響曲を書いても、誰かがお金をくれるということは、滅多にありません。念のため)、日銭を稼ぐ必要に駆られて・・・。
というのは冗談ですが(半分は冗談じゃないですが)、先生などの職に就いていない私にとっては、これももうひとつの重要な仕事と思っています。
そもそもクラシック音楽というのは、素晴らしい音楽の宝庫ながら、楽しむのにちょっとした「コツ」がいるのも事実です。なにしろ大小さまざまな天才たちが200年以上にわたって積み上げてきた宝の山。一番上で派手にキンキラ光っている王冠や、入口で大安売りみたいに並ぶ首飾りは、宝のほんの一角にしかすぎません。
実はその裏に巨大な宝石箱がいくつも隠れていることもありますし、一番大きなダイヤモンドが奥の方に埋まっていることがあったり、時には、隠し扉の向うにもっと大きな宝物殿が潜んでいることだってあります。
そんな中から、自分だけの宝物を見つけ出すためには、(ある程度)自分から探し出す努力や勉強が必要です。私自身も、今でこそ例えばシベリウスやブルックナーの最後の交響曲やロマン派や近現代の様々な作品を「生涯の宝物」として聴いていますが、いずれも、簡単に見つかって最初から「あ、面白い!」とすべてを理解できたものではありません。
むしろそういう音楽ほど、出会った第一印象は「よく分からない」というものが少なくないのです。でも、作品の背景や作曲家のことを知り、その語法や歴史や文化的背景などなど色々なことを知り始めると、「そうだったのか!」という思いと共に興味が深まり、聴き方(聴こえ方)が変わって行くことが多々あります。
最初に出会った時は無愛想でとっつきにくいと思った相手でも、しっかり正面から付き合うことで一生の親友となることは、よくあることです。そういう「人生にはなくてはならない心の友」としての作品との出会いを、少しでも多くの人たち、そして子供たちに味わってもらえたら、という思いで、クラシック音楽についてのあれこれを書き、語り続けているわけです。
もっとも、実を言うと、私がはまりこんでしまった「クラシック音楽」という底なし沼へ、一人でも多く引きずり込みたい…という悪魔のような思惑も、ちょっぴり混じっているのですけどね・・・
・・・・・吉松隆
現代で「クラシック系音楽の作曲家をやっています」と言うと、いまだに「ああ、現代音楽ですね」と(ちょっと顔をしかめて)言われることが多々あります。
まあ、確かに現代で音楽を作曲しているのだから「現代音楽」には間違いないのですが、第二次世界大戦後に闊歩した、いわゆる「前衛音楽」(アヴァンギャルドなんて言います)の、グチャグチャ・ゲロゲロ・ドロドロというタイプの難解(要するに不快)な音楽が、よほど印象的だったのでしょうね。いわゆる「ゲンダイ音楽」というのは、ごく普通のクラシック音楽ファンにはそれこそ蛇蝎のごとく毛嫌いされています。(それでも、蓼食う虫も好き好きと言って、そういうのこそが好きなマニアも少なくないのですけれど)
おかげで、かれこれ半世紀ほど、クラシック系音楽の「新作」というのは、一般の聴衆からほとんど見向きもされなくなってしまいました。ほんの80年ほど前(1920年代)には、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」とか、ラヴェルの「ボレロ」とか、プッチーニの「トゥーランドット」などが次々に新作として披露され、世界的に演奏されていたことを思うと、実はこれ、かなり異常なことと言わざるを得ません。
ちょっと考えてみてください。いくらシェークスピアやコナン・ドイルやドストエフスキーや紫式部が素晴らしいと言っても、今みんなが普通に読んでいて一番売れているのは、やっぱり今生きている作家の最新作であり今月の新刊ですよね?
ポップスだって、ビートルズやエルヴィス・プレスリーや美空ひばりがどんなに天才的でも、今一番聴かれているのは新しい若いアーティストによる最新ヒット曲であり、今週の新譜です。それが、健全な世界というものです。
ところが、クラシック音楽界だけは、100年も200年も前に死んだ人が書いた作品を崇め奉ったままです。コンサートでもCDでも放送でも、演奏されるほとんどが過去の作家たちの残した音楽で、新作が一般聴衆の前に登場する機会は滅多にありません。こんな異常な業界は、クラシック音楽界以外にちょっと思い当たりません。
かつて、指揮者の渡邊暁雄さんは「私たち演奏家は、過去の作曲家たちが生み落とした名作を演奏することで大いなる恩恵を得ています。ですから、その恩返しとして、現代の作曲家たちが曲を生み出す手助けをするべきなのです」とおっしゃられたそうです。
現代に生きる作曲家も同じです。過去の音楽からの恩恵を血肉とし、渾身の力で現代という世界を記述する新しい音楽を作ること。それこそが、過去の作曲家たちへの敬意の証であり、恩返しなのだと思います。
…いや、もちろん、それをダシにして遊んでることも否定はしませんけどね。
・・・・・吉松隆
先日、この9月にNHKのBS2で放送される「おーいニッポン」という番組のリハーサルに行ってきました。私が構成・編曲した「埼玉Rhapsody」というスコアの打合せです。
この番組は、年に数回ほどのペースで日本全国の都道府県にスポットを当て、6時間ほどにわたってお国自慢情報を紹介するもの。番組の最後には、その県ゆかりの歌や音楽や民俗芸能を組み合わせて12分ほどのメドレー構成にした「ふるさとラプソディ」が、その地のアマチュア・オーケストラと合唱団のみなさんとの共演によって演奏されることになっています。
これは八木節やソーラン節など日本民謡で構成した外山雄三さん作曲の名作オーケストラ曲「ラプソディ」にちなんだものとのことで、今まで千住明、服部克久、渡辺俊幸、栗山和樹、小六禮次郎、和田薫などなど色々な作曲家・編曲家の方によって書き継がれています。お国自慢ですから、本来はその県ゆかりの作曲家が作編曲するのがベストなのですが、そうも行かない時に私に声がかかるみたいです(笑)
私は昨年、茨城県の時に初参加したのですが、今回(9月)は埼玉県。川越ゆかりのわらべ歌「通りゃんせ」、秩父屋台囃子(秩父市)の太鼓、知る人ぞ知る卒業式の定番ソング「旅立ちの日に」(秩父市)、タケカワユキヒデ氏(さいたま出身)のヒットソングなどなど8曲をメドレーにして、オーケストラ(指揮は円光寺雅彦さん)、200人の児童合唱および混声合唱、和太鼓群、ロックバンド、金管のファンファーレ隊…という(ベルリオーズやマーラーもびっくりの)巨大編成となりました。
なにしろ大編成ですので、スコア(上の写真)も大きいです。それに、演奏される場所も普通のホールではなく、大宮に新しく出来る「鉄道博物館」(正式な開館は10月。鉄道マニアにはちょっとたまらない場所かと)。歴代の機関車や客車がずらりと並んだ展示館の巨大空間で鳴り渡る予定で、これも先日ちょっと下見に伺いました。
オーケストラや太鼓や合唱やロックバンドという異なるジャンルの音楽を同時に演奏させる、というのは結構大変なことなのですが、(前のブログで書いたように)「楽譜」を書くことによって、こういう思いもかけない音楽が生まれます。
逆に言えば、楽譜を書かなければ生まれようもない音楽が生まれるわけで、これは実に悪魔のような(?)快感と言わざるを得ません。
この悦びさえあれば、スコアを書くのが大変だとか、〆切がキツイとか、ギャラが安いとか、そういう不満なんか・・・・・いや、ほんのちょっぴりはありますけどね。
BS2での放送は9月2日(日)。曲の披露は生中継で5時半頃からの予定です。
・・・・・吉松隆
現在、作曲のお仕事としては、左手のためのピアノ協奏曲というのを作曲中です。これは、ピアニスト舘野泉さんのために書いているもので、タイトルは「ケフェウス・ノート」。今年の冬、ドレスデン室内管弦楽団の来日公演で初披露されることになっています。
左手のためのピアノ協奏曲というと、ラヴェルの有名な曲があるのをご存知の方も多いと思います。あの曲は、第一次世界大戦で右手を負傷し失ったパウル・ヴィットゲンシュタインというピアニストのために作曲された曲ですが、ラヴェル以外にもプロコフィエフやリヒャルト・シュトラウスやブリテンやヒンデミットやコルンゴルトなど錚々たる大作曲家たちが彼のために左手の作品を書いています。
これほど多くの作曲家が曲を献呈した演奏家と言うのもちょっと珍しいのですが、実はこのヴィットゲンシュタインというピアニスト、かの哲学者ルドヴィヒ・ヴィットゲンシュタインのお兄さんで、父親はウィーンで知らぬもののない大実業家にして大富豪なんですね。芸術家や画家や音楽家のパトロンとして、メンデルスゾーンからブラームス、ロダン、ハイネ、クリムトなどと親交があった大金持ちだったそうです。
ですから、身も蓋もなく言ってしまうと「札束で作曲家の頬をひっぱたいて」片っ端から書かせた…とも言えなくもないようで。書かせておいて「気に入らない」と演奏すらしなかった曲(プロコフィエフなど)もあったといいます。豪勢と言うか、もったいないと言うか。
でも、いいですねー。私も札束で頬をひっぱたかれて曲を書いてみたいものです。一生に一度でいいですから(笑)
今回の私の曲は、左手のピアニストになられた舘野泉さんのために書き下ろされるものですが、タイトルの〈ケフェウス〉というのは、秋の夜空に浮かぶ五角形の星座の名前です。「左手の5本の指」だけで弾くので、5つ星の星座の〈星のヴィジョン〉をイメージの核にしたというわけです。左手のピアノの美しい響きを室内管弦楽が優しく包む、5章からなる音楽(になる予定)です。
というわけで、夏の暑いさなかに秋の涼しげな夜空を思い浮かべながら作曲を進めています。無事に出来上がりましたら、12月8日に南相馬市民文化会館(福島)、10日に東京オペラシティなどなど国内数ヶ所で演奏される予定です。しかし、この暑さです。果たして、無事に書き上げることが出来るのでしょうか?
今回「せんくら2007」のコンサート(10月6日)で仙台フィルの方々(指揮:山下一史さん)と披露する私の曲は、「子供たちのための管弦楽入門」と「コンガラガリアン狂詩曲」という2曲です。
最初の「管弦楽入門」は、そもそもは子供たちのためのオーケストラ入門コンサートのために書いたもので、その名の通り、コンサートの始めに語り付きでオーケストラの楽器を次々と紹介してゆく5分ほどの音楽です。
なにしろクラシックのコンサートというのは、黙って始まり黙って終わるのがほとんど。それに対して子供たちが「お客さんがいるのに、ぜんぜん自己紹介もしないで、黙って始めるのはおかしいよ」言うのでハッとしたのが、作曲のきっかけでした。
とは言っても、楽器を吹きながら「私はフルートです」とか「ぼくはトランペットです」などと自己紹介は出来ないので、語りの方が順番に紹介してゆきます。初披露の時は声優さんに語りをやってもらいましたが、今回は(たぶん)作曲家自身がやることになると思います。
そして、もう一曲の「コンガラガリアン狂詩曲」という変なタイトルの曲は、…これは作曲したわけではなくて、誰でも「あ、聴いたことある!」という古今の有名なクラシック名曲を20曲ほど繋ぎ合わせてポプリ(メドレー)にしたもの…です。
ベートーヴェンの「運命」に始まって、ブラームスの「ハンガリー舞曲」、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」、ビゼーの「カルメン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」、プッチーニの「トゥーランドット」、ホルストの「惑星」・・・。次から次へと何でもかんでも出て来ます。大作曲家の先輩方、ごめんなさい。
どうしてこんな曲を書いたかと言うと、コンサートの企画をしている時にマネージメントから「誰でも知っているような有名な曲をとにかくプログラムに載せてください。そうしないとお客さん来ませんから!」と身もフタもなく言われてカチンと来たのが始まりです。(ちなみに、〈せんくら〉の方ではありません。念のため)
そこで「そんなに名曲がいいなら、あなたが言う〈誰でも知っててお客が来る有名な曲〉っていうのをぜ~んぶ並べてプログラムに載せてください。それ、み~んなつなげて一曲にしちゃおうじゃないですか!」と口が滑って(笑)・・・それで書くことになりました。
つまり、口が滑って繋ぎ合わせすぎてこんがらがってしまったラプソディ(狂詩曲)というわけですが、これはもちろん「ハンガリアン・ラプソディ(ハンガリー狂詩曲)」のもじりでもあります。念のため。
・・・・・吉松隆
私はもうかれこれ30年近く作曲家をやっていますが、作曲家というのは、考えてみれば奇妙な仕事です。なにしろ自分では演奏せず(それどころか聴衆の前に現われもせず)楽譜だけ書いて音楽を伝えるのですから。
ちなみに、今でこそ作曲家などというものをやっていますが、14歳になるまで(つまり中学3年生まで)は、自分が将来、音楽を職業にすることになるなんて、想像したことすらありませんでした。
そもそも子供の頃は科学者か医者、そうでなければ漫画家になりたいと思ってました。確かに物を作るのは好きでしたが、特に「音楽」に興味を持った覚えはありませんでしたので。
それが、中学3年の冬、つまり高校受験の真っ最中に「交響曲」というものを聴き、突然頭の中で何かが覚醒して「作曲家になるッ!」と決めてしまいました。自分でも、その理由は…よく分かりません。
以来、「純音楽」(早い話が、お金にならない音楽…ですね)にこだわり、オーケストラ(交響曲とか協奏曲とか)の作品を中心に書き続けてきました。ただし、音楽大学にも行かず、先生にも付かず、外国に留学もせず、ロックバンドでキイボードを弾いたり、ジャズのコンボや邦楽器の入ったグループで演奏したりしながらの「独学」だったのですが…。
どうしてそこまでして〈作曲家〉などというものになろうと思い、〈作曲〉というものにこだわってきたのか?と言うと、それは、自分で演奏できなくても楽譜さえ書けば「どんな音楽でも創ることができる」ということ。これに尽きると思うのです。
なにしろオーケストラでも室内アンサンブルでもピアノでも歌でもロックバンドでも和楽器でも雅楽でも合唱でも古楽器でも電子楽器でも、楽譜に書ける楽器ならどんな組み合わせでも「自分の音楽」にすることが出来ます。(実際、私もそのほとんどすべてを書いてきました!)
しかも、自分がいない場所の聴衆や、知らない遠い外国の聴衆、さらには極端な話ですが自分が死んでしまった何十年か後の聴衆ともコミュニケイションが可能なのです。これって、とてつもなく面白い、そして不思議なことだと思いませんか?
おかげで、もうかれこれ四半世紀も、作曲をし続けるはめになってしまいました。もしかしたら演奏家の方々にとっては(そして聴衆の方々にとっても?)迷惑な話なのかも知れませんが、とにかく本当に素晴らしいのですよ。「作曲」するってことは!
・・・・・吉松隆