突然暗い話になって申し分けありませんが、今年一月に私の母が亡くなりました。病気でしたが突然で、5日前に最後に会ったときもとても元気でした。突然呼吸困難になり自力で病院に行ったそうです。私は亡くなる前日(といっても発病の翌日)に駆けつけ一晩看病し、最後まで見取ることができました。
すでに8年前に父が亡くなり、兄弟もいないため、都合2回喪主を行ないました。
いろいろなことがあり、それなりにこたえたことも沢山あったのは事実ですが、ここで、それについての感傷的な話をすることが目的ではありません。
ただその前後にかかわった曲についてお話をさせていただきたいと思います。
母が亡くなる二週間前に私とヴァイオリンとのデュオの演奏会を聴きに来てくれました。これが彼女の聴いた最後の演奏会です。そのときはモーツァルトのK304を演奏しました。この曲はモーツァルトの母親が亡くなったときに作曲した曲といわれております。
亡くなる1週間前に友人が私にある曲の弦楽オーケストラへの編曲を依頼して来ました。曲は”Time to say good bye”でした。元気な母の顔をみた最後の日に、とある人のオリジナルで「さよならのさは桜」という曲のアレンジを完成しました。母が亡くなって最初の公開演奏ではドビュッシーのチェロソナタでした。ドビュッシーが直腸癌の宣告を受けた直後の作品と言われております。8年前に父が亡くなった直後の最初の演奏会も同じ曲でした。
葬祭時の最中に毎日練習しておりました。昨年、年も押し迫るときに、ある友人からミシェル・ルグラン作曲の歌で譜面が無いので聴き取ってコピーしてほしいといわれました。歌の曲で“Dans le même instant”という曲です。後半の詞です。
この瞬間に 地球の果てで 幾人もの兵士が 日の光の下死んでゆき
この瞬間に 他の誰かと入れ替わる それでも私たちは抱き合う
この瞬間に 飛行機は飛び立ち 子供は学校で その音を聞いて夢見る
この瞬間に 老人は息を引き取り こどもはため息をつく 男は20才
この瞬間に 人々は嘆き あるいは歌い 耄碌し 息を引き取る
苦しみあるいは祈る 時間に溺れ 空間に迷う
私たち二人は抱き合う それが生きること
昨年12月、クリスマスに私の唯一のCDが完成し、早速実家に沢山の段ボール箱とともに運ばれてきました。1ヶ月は母も聴く事ができたと思います。ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌやバッハ=ブゾーニ:シャコンヌが入っております。
私が、母危篤の合間に、実家に大事なものを取りに行ったあと、母の乗っていた車で再度病院に向かおうとエンジンをかけたときに「パヴァーヌ」が鳴り出しました。常に聴いていたようでした。ちょうどそのとき彼女は人工呼吸を入れることになり30分前まではしっかり話をしていましたが、私が着いてからは話ができない昏睡状態になっておりました。
現在これらの曲は自分の中ではとても大きな意味を持っております。
以上のことはある意味で予定されていたことではないのですが、世の中には不思議な符号があるなあ・・・と思っております。
一昨日7月2日は誕生日でした。
この歳になってくると誕生日というものは自分でもどうでもよくなるし、また長男と一緒とあって、私の親でさえついでに「おめでとう」というくらいになってしまいました。
今日は静脈瘤の治療のために、JR病院に行って来ました。
次男を妊娠していたときにできてしまい、右足は血管が浮き上がるようになり、見た目にも良くないし、なんといってもいつも鉛が入っているように重く、だるかったのです。
10年ほど前に外科手術をしてだるさや不快感は改善されたのですが、数年たつとまた少しずつ出てきます。
5年おきに治療をしているのですが、血管に点滴用の針を刺し、薬を入れながら潰していくという細かい作業を繰り返します。
あまり痛くはないのですが、時々薬が入るときに足が自然に震えるくらい痛いときもありますが、そこはきれいな足になるために我慢我慢。
先生も「足美人にしてあげましょう。」と一言。
というわけで今日は3回目が終了し、後は様子を見てということになりました。透明人間のように右足は大きな包帯でぐるぐる巻きなっています。
JR病院は血管外科では日本の中で、かなり優秀で有名です。
気になる方はいつでもご相談ください、紹介いたします。
私は、ベルギーはアントワープというところで勉強していた時期があります。なぜそこに行ったかというと、もちろん素晴らしい先生にめぐり合えた事と、様々な方のご協力があったからこそ・・・と思っておりますが、もっと直接的な理由は食事と風土でした。
旅行ではないので、食事は毎日のことなので口に合わないと過ごすのがつらいと思っていたからです。また気候も、一度住んだらそこから抜け出すことはできないので重要でした。食事については私個人の独断では、ベルギーはヨーロッパの中で最高ではないかと思っております。ここで曲解されないためにも一言付けくわえさせていただきますが、「ベルギー料理」が「ヨーロッパの中で最高」と言っているわけではありません。もちろんムール貝や、ワッフル、チョコなど素晴らしい料理がありますが、それも素晴らしいとして、世界各国の料理が比較的高くない値段で食べることができるのです。
「高くてうまいのは当たり前」と私自身は思っておりますが、まずベルギー料理、フレンチ、イタリアンはもとより、ロシア、ギリシャ、トルコ、モロッコ、韓国、中華(広東、北京、四川、香港)、日本(寿司、定食、焼き鳥)、ベトナム、インドネシア、マレーシア、インド、クロアチアほか沢山の国の料理が私の家から歩いて30分以内のところにありました。かなりの店がかなりのクオリティで毎日飽きることがありませんでした。ベルギービールも見逃せません。400とも600ともいわれている種類のビールはほとんど地ビールで、ラガー系から、黒ビール系、果物のフレーバーによるフルーツ系など全く飽きません。ベルギー人はお金が無くとも週に一回は家族で外食をするとも聞いております。貯蓄はあまりないのですが、それでももらったお金は、まず食事に使うのが大好きなようで、皆さんおいしいものを食べるのが大好きなようでした。その人生を謳歌する態度に感動を受け、住んで学ぶことを決意したといっても過言ではありません。
この国は小さいため、税金が非常に高いのですが、その代わり相当の年金が入るために、退職を楽しみにしていて、老後は悠々自適です。いいレストランでお昼を食べているお年寄りも多いですね。失業保険もかなり充実し、医療も心臓バイパスの技術は世界屈指で、頻繁に手術が行われております。
次に気候ですが、ベルギーは基本的に「曇り」か「霧雨」しかありません。本当の快晴はほんの数時間のことが多く、雨も集中豪雨になることは本当にまれです。しかしながらいつも折り畳み傘は無いといけない・・・冬は朝9時半くらいにならないと明るくならず、15時には暗くなってくる(夏は逆ですが・・・)というところも、冬の鬱蒼としたものに対して嫌悪感をそれほど持っていない自分にとってはなかなかいごこちがよいものでした。なぜかそういった暗い空間では家にこもってじっくり音楽のことを考えて練習できるので、留学して自分の演奏を向上させてこようという者にとってはよい環境だったといえると思います。ストレスがたまったらおいしいものを飲んで、食べたらすぐにどこかに飛んで言ってしまう。そんな生活でした。
先週の土曜日、仕事先の楽屋で友達が「おお、神尾真由子ちゃんチャイコで1位だって」と、携帯をみて言いました。
久々の日本人優勝とあって、メディアも毎日、クラシックとしてはかなり大きく取り上げていました。
彼女が小学6年生のときに、仙台フィルとメンデルスゾーンのコンチェルトを演奏しました。
私は降り番で、そのときはもう一人のコンマスであった森下君がコンマスをやっていました。
もうその時点で彼女のことはかなり有名で、また彼女にとても興味があったので、私はリハーサルを聞きに東北福祉大のけやきホールに出向きました。
演奏は堂々としていて、それはとにかく大人が演奏しているかのように、幼さはどこにもなく立派なものでした。
リーサル終了後、いろいろ聞きたいと思い、声をかけてみました。
彼女の先生は、元東京クヮルテットの第一ヴァイオリン奏者であった原田幸一郎先生でした。
幸一郎先生ご夫妻には、ニューヨーク時代に大変お世話になり、福岡で同じ先生だったこともあり話が弾みました。
神尾さんと話をしていて一番驚いたのは、まるで大人と話しているようで、受け答えはどう見ても12.3歳とは思えず大人と話をしているよう。
レパートリーを尋ねてみると、チャイコ、シベリウスなど有名なコンチェルトを数曲、また難曲の小品もいくつかすらすら即答でした。
さすが天才は違う、つくづくそう思いました。
あまりにもキャリアが長いので、21歳という年齢を聞いてまだそんなに若かったの?とまた別な驚きでした。
そういえば1979年の秋に、もう日本に帰ることを決めていたときに、ジュリアードのドロシー,ディレーのところにまだ13歳だった五嶋みどりが来て、
ディレーが「凄い天才少女が日本から私のところに来た。」とえらく喜んでいると、ディレーの弟子が言っていたことを思い出しました。
松山冴花さんも、みなさん関西ですよね。関西人は素晴らしい。
私の中では仙台のイメージは冬です。空はいつでも曇り。こう書くと非常にネガティヴな印象を与えかねませんね。でも人間が一日中スカッとした状態にいることだけがその人にとって本当に幸せなのだろうか、アートを生成することにとって有用なのだろうかとも思うことがあります。私自身、実は幼年時代は、もしかしたら無意識のうちに今も、鬱々としていることが常で、ではその状態が苦しみであると自覚していても、自分にとって本当にいやな状態なのであるかというと「?」です。その鬱々とした状態の中だからこそ、私の思っている「深い」クラシック音楽をむさぼりたいとも思うのと、そのときに私に与えるネガティブをポジティブに変えようとする内的な変化はひとつの「希望」であって「希望」があるからこそ物理的に生きる原動力となるのかなあ、と思っておりました。どうしてもある種の動物や、虫のように食っちゃ寝、食っちゃ寝という生活を苦も無くできればよいのですが、人間はどうしても感情があるために、なかなか行動が規則的に行かない側面もあり、だからこそそのいびつな溝をもしかしたら音楽のようなアートで埋めていって、どうにかこうにか精神的な均衡を保っているのではないかと思う事さえありました。これもいつも鬱々としている仙台の中にいるからこそ味わえる、不均衡さの中での均衡を感じているからこそ思うことなのですが・・・つまり私は仙台に生まれ育ってよかったということです。
どうやら仙台は日本で何番目かに日照率の少ない、また天気を予測しにくい都市らしいです。この曖昧さと予測難の不安定さは嫌いではありません。
北の鬱蒼とした音楽、ラフマニノフ、チャイコフスキー、シベリウス、グリーグ、ブラームスほか、雪、時には吹雪と退屈なまでの雲の天井を想起させる音楽は非常に自分にとっては身近です。そういったにび色の中に沸き立つ長い持続を持った暖かい感情は私にとってかけがえのないものです。
それに対して以前はフランスの音楽は憧れでした。あの軽く色彩感に溢れた世界は自分とは全く正反対のものに思えました。私の知っているパリはそれに反して、華やかな街中とは対照に、天気はなかなか曇りが多かったと記憶しております。そのやはり「グレー」の世界の中に、時々垣間見せる鮮やかな光を見出そうとしたフランス音楽が自分の中でもふつふつと身近に思えるようになってきました。私の中でのドビュッシーやラヴェルは、単に響きが美しい、綺麗というだけではなく、もやもやした人間の感情を、名人芸的なプリズムによる美化で、黒いものも、グレーのも、白いものも色彩を帯び、与えられて甘味を感じさせられます。それが、いくばくか皮肉めいたユーモアが感じられるというのも、人間の多少否定的な回路を通した快感も、どちらも単に「感じる」ということであるために、自分の体内にある自然な感情の生理に対して嘘はついていないと思うと、実はストレートに快感を得ていると思うと、これももしかしたら仙台という土地で自然と培われた感情なのかなあと思うときもあります。
今日は全てのヴァイオリニストの憧れであるクライスラーについて私なりの想いを書いてみます。
伝記を読む限りでは人間的にとても魅力的で、また純粋で、かつ子供っぽいところもあったと書いてあります。
昔からカードゲーム(ポーカー)が好きで、練習そっちのけで夢中になり、本番に遅れそうになったり、賭けで負けてしまい自分の楽器を質屋に入れたりと、かなり無茶なこともしていたようです。
とにかく練習嫌いは有名で、奥さんに怒られ、監視されながら練習したという話は、なんだかほほえましくてうれしくなってしまいます。
今回のプログラムのひとつの「ロンドンデリー」の歌は、ピアノもお得意でもあったクライスラーが、アイルランド民謡をピアノ伴奏に趣向を凝らし、かなり音の厚い編曲になっています。
クライスラーは自分でピアノを弾いたものの録音に、ヴァイオリンを弾くということもしたそうで、ハイフエッツも彼の伴奏でメンデルスゾーンのコンチェルトを、公の場所ではないのですが、弾いたことがあるそうです。
私はこの「ロンドンデリーの歌」に自分の古里のがダブってしまいます。
福岡県の炭鉱町、飯塚の出身ですが、子供のときの炭鉱の風景、田んぼ、れんげ畑に入って遊びれんげを全部潰してしまいおじさんに怒鳴られたり。
また道路に面した部屋で窓も開けっ放して練習していて、気がつくとよくヘイ越しに人が立ち止まって覗いていたこと。
世の中まだ豊かではない時代に、ヴァイオリンを習っていたことが学校で特別の存在であったことなどが、思い出すと胸が締め付けられるような光景がよみがえってきます。
しかし、今ではすべて懐かしい思い出です。
みなさんこんにちは!ピアニストの中川賢一です。私は仙台に生まれ育ちました。大学時代は東京で、外国にも留学しましたが、いつのときでも自分の心のふるさとは仙台にありました。今回は3日間仙台クラシックフェスティバルに参加できて、仙台人としては本当に光栄です。
仙台に生まれてよかったことは本当に沢山ありますが、まずは食べ物と自然です。といっても私が育った子供のときと現在ではかなり違っていることも申し上げなくてはなりません。
「北国」・・・といっても今となっては大雪を見ることもなかなかなくなってきました。いま仙台を雪国と思っている方は少ないかもしれませんね。私は仙台の冬が大好きでした。
以前は冬になるとかなりの量の雪が積もり、長靴なしでは外を歩くことはできない状態で、頻繁にそりすべりをするために小さかったときも重いそりを抱えて坂のある林に通っておりました。当然手はかじかむのと、頬は真っ赤になって言葉も話せないほど体が硬直してしまうのにもかかわらずそりすべりをしていました。林の中の坂をすべると思わずスピードあまって、さらに奥の草むらの中まで突っ込んでしまい、一緒にいた友達が私のことを見つけることができないこともありました。今だったらこんな危険な遊びはさせてもらえないのかもしれませんね。そりすべりを終えて夕方暗くなって変えるときの心細さといったらなかなかのものでした。今のように電燈も沢山無いために100メートルごとの木の電柱にぶら下がるさびしい電球を頼りにとぼとぼ歩いていたと思います。おそらく小学校低学年からそのようなことをしていたと思います。今は「不審者」などとかで子供が一人出歩くというのは危険視されますが、私はそういった意味では危険だったかもしれませんが、みんなそうしておりました。その帰りがけ、親に怒られる19時くらいには、すでにそれほどの人影も無く、しんしんと降る雪の「音」を聞くことができ、また夕暮れのなぜか青白い全く足跡のない平面の雪の絨毯を見ているとミステリアスで、子供ながらに狂気のこもった空間は、怖いのにもかかわらず魅力的でした。ドビュッシーの前奏曲で「雪の上の足跡」という私の大好きな曲がありますが、このシュールな世界はすでに私の中では幼少のうちに、もしかして見ることのできるものだったのかもしれません。
今はすべてがある意味で豊かで満ち溢れています。しかも、いつでも明るい。冬の夜でさえ、煌々と電燈がともり常に車がはしっている状態は私の中では「暗くなった昼」です。すべてが眠り、死んでいる・・・常に自然に昼の「生」と夜の「死」という、もしかしたらあまりにも短絡的かもしれないが、生物の諸行を感じる空間を幼少時に味わうことができたのはとても幸せだったといってよいかもしれません。
今回のせんくらに出演しますヴァイオリンの渋谷由美子です。
せんくらは3日間の間に101回の公演があり、お客さんの立場ではどれに行こうかと楽しみもあると思いますが、自分の行きたいものが重なっているときは、本当に悩んでしまうと思います。
私の演奏会は7日の10時半から、楽楽楽ホールでグリーグの3番のソナタを、中川賢一さんと演奏します。
彼は桐朋の後輩なのですが、長いことお互いによく知っているはずなのに、なぜか一度も共演するチャンスが今までになく、今回このせんくらのおかげでやっと実現できました。
しかし、私はクライスラーの音楽もこよなく愛していまして、今回「愛」といういろんな形をテーマに3曲選んでみました。
次回はクライスラーの編曲というものに触れてみたいと思います。
ブログも今日で最後です。7日間って早いですね~!
さて、
私は音楽活動を始めてから、ハープの音が求められているなら、どこにでも飛んで行く、というスタンスでやって来ました。オーケストラ、アンサンブル、ソロ、レコーディング、子供たちの為の音楽教室、病院コンサート、などなど。。
この経験で感じた事は、どんな場所でもどんな編成でも、共通して得られる喜びは、聴いて下さっている方々と「音」と「呼吸」を分かち合える事。
これはライブ演奏が行われている「場」で生まれる独特なものだと思います。
複数のお客さまと、舞台の演奏者とが、1つになる、その「間」と「空気」。
幸せを共有、共感出来るって凄い!と毎回思います。
今回、せんくらの舞台で、ハープ独奏でヒンデミットのソナタから第3楽章を演奏します。
この曲はヒンデミットが、ヘルティという詩人の詩に感銘を受け、それを元に作曲しました。当日はその詩を読んでから演奏します。
この詩の中にハープが独りでに鳴る、という部分があるのですが、ヒンデミットはきっとハープが風に吹かれて微かに鳴るのを聴いた事があるに違いあり
ません。
私は以前、野外コンサートで風が止むのを待っている時に、その音を聴きました。その「音」をヒンデミットはまさにこの曲の中に使っているのです。
素敵な曲なのです!
是非皆さん、おいで下さいませ!
一緒に音と音から生まれる幸せな「空間」を楽しみませんか?
では、、1週間お付き合い下さりありがとうございました!
10月にお目にかかれますように!
<つのだたかし&波田野睦美>
それでは私自身がブラボーをしないかと言うと、するのである。
どんな時かというと、
音楽のメッセージがこちら側にボールのように放り投げられる時がある。
飛んできたボールはちゃんと投げ返さねば。
クラシックではあまりないが、他のジャンル、ジャズやロック、民族音楽、歌舞伎など、音楽的な要求で、演奏の途中であっても自然発生的に聴衆側の反応が生まれる場合がある。
イェーイ! オレー! 成駒屋!
花火がどーんとあがると 玉屋~!なんてのもある。
これはクラシックの場合の
「この曲の終わりは私が一番よく知ってんだかんね」
という意味を含んだ知ったかぶり型のブラボーのありかたより
ずっと音楽的で健康的な気がする。