藤原真理(7)

2007.07.28| 藤原真理

1週間ブログの形で私なりの思い、考え、希望など雑多に書かせていただきました。お目通しくださった皆さんに心から感謝しております。

最後に、演奏会は良くも悪くも現在進行形で、2度と同じことは起こらない時間と場所です。その意味で人の人生と同じです。ブログを読んでくださり、もし興味を持っていただけたなら、クラシックの演奏会なんていったことはないという方々も是非一度足をお運びください。

藤原真理(6)

2007.07.27| 藤原真理

12ヶ月が1枚の紙に刷られた暦をもとに、日割りにした予定準備をこなしていく毎日ですが、ああだこうだといっても予定外の事態も起こるのが人の生活のようです。

学生時代から思い返してみるといろいろあります。不安が原因で練習をしすぎて、本番の日に指が疲れすぎているとか。さあ大変と客観的な視点を十分持ち合わせないで練習してしまうとか。大きな作品規模なのに準備期間を短く設定した、あるいは時間がかけられない日が多かったとか。こんなときは、そのままの事態を受け入れるしかありません。そうしたのは誰でもない自分ですから、清水の舞台から飛び降りるという思い切りしかありません。山登りと違って生命の危険はないのです。死んだ経験はないのでわかりませんが、死んだつもりになればもう怖いものはないでしょう。そして次に同じ失敗は繰り返さないように心に刻みます。

 

藤原真理(5)

2007.07.26| 藤原真理

私の気分転換についてお話しましょう。時間のある時とない時では、何をするかがまったく違ってきます。

時間のある時、それも2泊ぐらい出来そうな折は遠出します。半年に一度ぐらいは決行。前後がハードな場合は1泊にしてでも北海道、四国へ飛ぶほどです。ようするに都会の粉塵やコンクリート、アスファルト・ジャングルから逃れたいためです。たいていは暦を眺めて、このあたりはもしかして{もしかしなくても}自然の緑に染まりにいかないと心がアレルギー状態になるかなあと想像して、割引のキップがある時期と照らし合わせて事前に組んでしまうことが多い。そのかわり、それを馬の鼻先のニンジンとして、より集中して最善を目標に働きます。たぶん、ブーンという回転音を発しているかもしれないぐらいの勢いなので、近くにいる人たちは迷惑ですね、きっと。

時間のないときでも時間は作るようにして、運動のために通うジム行きの前にお店に立ち寄って物を眺めます。チェロの練習とは違う頭の使い方は休まります。本屋、東急ハンズだと、それこそあっという間に時間が過ぎますね。皆さんもご経験がおありでしょう。購入は急がないけれど長期的に推移をみておきたいものとか、出来れば2,3ヶ月以内に欲しいが、現状をまず把握したいとかです。日進月歩の日本の製品は目を見張る速さで変化していくので、たまには決断が遅すぎて製品自体がなくなってしまうこともあります。しかしそれはそれで諦めがつきます。納得のいかない物を生活の中に安易に入れたくないというのが本音です。

このように書いてくると私という人間は常に何か考え、準備しているように思われるかもしれませんが、本来は趣味が昼寝、何もしないでボンヤリが大好き人間です。チェロの演奏をするという現役生活をあと何十年続けられるかという大目標があるので、ジムでの運動、出かける余裕なしの時は自宅での体ほぐしが趣味のようになり、実際に不可欠なものとなりました。冬場は毎月のように通うスキーも定着して長いです。スキーは頭の中が真っ白になるのがいい。滑り出すと余計なことは考えている暇がないというのが良いのかもしれません。すがすがしい空気の中で足裏の皮膚感覚がジンワリと目覚めてきた時は大満足です。学習するスピードは遅いのですが、すぐには出来ないという事態には慣れているので問題ではありません。

自分の住んでいる町でも、好天気の早朝だと様相はいっぺんします。静かで空気はおいしい。生き返ります。したいことはたくさんあるので、人生、忙しくしている暇はないですね。

藤原真理(4)

2007.07.25| 藤原真理

演奏会の前日から当日はどのような注意をしているかというと、さほど特別なことはありません。前日にお稽古を疲れ果てるまでしなければならないようだと、翌日の出来具合も思いやられます。普通に準備が出来ていれば、最低限必要な練習を落ち着いてして、あとは気分転換に努めます。運動に行くことが多いですね。

演奏会当日は郵便作業や掃除、片付け、不用品の選別などはもちろん、メールの返事も急ぎのもの意外はしません。電話は普段も取ることは少ないのですが留守電に頼ります。演奏に使う腕や指の筋肉、細かい筋の具合が、要するに疲れる。違う使い方のあとでは切り替えが容易でなく、精神的にも集中度が散漫になりやすいためです。寝不足、食べすぎ、笑いすぎ、話しすぎも避けたい事柄です。

会場でのリハーサル時間はいろいろです。初めての場所だと少し余裕をみて演奏会開始の3時間前ぐらいには入ります。何度か演奏経験があるホールだといくらか短め。同じ曲目で演奏旅行をしている時は、初めての場所でも短めにしていきます。その場の響きに耳が慣れて、曲の細部の手直しとかもして、ピアノも実際に演奏するピアニストが鳴らして、楽器自体が目覚めるだけの時間があれば十分になってきます。

一つ忘れていた大事なことがあります。どんなに短くても、リハーサルのあと楽屋で背中を休めるのに水平になります。組み立て椅子を並べただけでも、あるいは机の上にでも横になって目を瞑ります。2、30分あると一瞬ですがふっと眠ることができて、頭がすっきり!時間があると60分昼寝することもありますが、それ以上は避けます。休んだあとは軽いストレッチをして、身支度を整えて、指慣らしをごく短時間して、「いざ」本番です。

藤原真理(3)

2007.07.24| 藤原真理

演奏をする場所も楽器の一部です。音楽専用に建てられたもの、そうでないもの、あるいは又、部屋の1室であったり、ロビーであったりと、近頃は大小にかかわらず、さまざまな場所で生演奏が行われるようになってきているようです。嬉しいことですね。

音響、音の響き具合はどうか。良い面、悪い面と、やはりさまざまな有り様です。我儘勝手、独断で言わせていただくと、ほとんどすべての好条件がそろっているというのは稀です。何の作品が、どのような編成で演奏されるかによって、聞こえ方が違ってもくるのです。ピアノのソロなら良いけれど、弦楽器は少し残響が足りなめで乾いた演奏に聞こえるとか。弦楽合奏はよいけれど、オーケストラの規模になると音がワンワンするとか。残響があるのはよいが、客席の場所によって不明瞭になりすぎるとか。

私はチェロなので、残響が少なくて音が予想している時間残らない場所は苦手といえます。響かないと分かっている場所に出かける時は腹をくくっていきますし、自主公演はそのようなところでは行いません。理由は明白。音の持続に力と神経を大半使ってしまうようでは、表現の工夫どころではなくなるからです。といって聞こえるからよい、響けばよいというわけでもない。お風呂場的な響き方は困りますね。何をどう調節しても明瞭に音楽の動きが伝わらないためです。また、さらに、演奏者から客席に音が通っていって、その返りが舞台にいる私たちにある程度返ってこないと、手ごたえを実感しにくいために余計な消耗をします。客席では十分、音量も音質も楽しめるといわれても、奏者のほうは頭を切り替えないといけません。のれんに腕押しという感じになるのです。

初めて伺う場所では期待と不安いりまじり、「さあて、どうかな」と腕まくりしながらリハーサルにのぞみます。

 

藤原真理(2)

2007.07.23| 藤原真理

最初の一音でほぼ全てが決まってしまうといっても過言ではない演奏ですが、では、そんなに神経を集中して演奏する曲、その選びかたはどうなのか。

まず第一に音楽的に共感をもてない作品はだめなようです。パラパラと楽譜を見て、よさそうかなと思ったものを入手する。音符をひとつづつ読み、指使いを探していく「譜読み」の段階に進みます。演奏効果がいまいちかなと思われる作品があったとして、音符が自分の指や腕、頭に入ってきて興味が増していくことはありますが、必ずそうなるともいえません。

正直に告白すると、私の運動能力があきらかに適していなくて無理という作品も無数にあるでしょう。最低一年間、他の仕事を入れないで時間を作って練習したいなと思う作品も多々ある。一応演奏できるようになるかならないかは勿論、作品の長さにもよりけりです。オーケストラとの協奏曲で初めてのものだと、最低一年前から開始が必要です。数分の小品で曲想が初めから的確に捉えられていれば数日でも可能です。短い曲でも技巧的に手がこんでいて、それが音楽的に自然に聞こえなければ演奏する意味がないものだとやはり半年、一年の時間が必要なのです。そしてそのあとは、実際の演奏回数がものを言います。練習して、演奏会にかけて、寝かせて、取り出しての繰り返しで音楽が熟してきます。まれに、自分で改善できたと思っていて、実際は悪くなっている場合も起こるので、決して油断はできません。といって弱気でいつづけるのも良い結果をうみません。むずかしいですね。でも、簡単にいかないから逆に、常に熱意を持って取り組めるのかもしれません。

ひと昔前の言葉で言えば、人生の折り返し地点を過ぎた私です。改善された面があるとはいえ学習するが遅いので、長生きしなくてはとても帳尻が合いません。

 

藤原真理(1)

2007.07.22| 藤原真理

(C)Atsuya Iwashita

みなさんはどのような時に音がほしい、音楽が聞きたいと思われるのでしょうか。人はまったくの無音の世界では長く耐えられない、大げさに言えば生きていけないといわれていますが、このような極限状況はなかなか想像もつきにくい生活を普段の私たちはしています。

アスファルトやコンクリート・ジャングルに取り囲まれた都会を離れ、自然の営みの音が聞こえる場所、さらにもっと遠い地の果てにいったとしても自然の音はあるはずです。たとえば、あたり一面氷の世界で張り詰めた大気はどうなのか。砂漠で照りつける太陽は音にはならないのか。残念ながら私自身は砂漠でも氷の世界でも極限に近い体験はまだありません。

20年以上前になりますが、シャホフスカヤというロシアのチェリストに何回かレッスンを受けました。その折りの彼女の言葉で、思い出すたびに強烈な一撃を感じるものがあります。「何も音が聞こえない静寂を知らずして、どうして音を作れるの?生み出せるの?」

物心つくかつかないかの頃の日々は別として、私自身はチェロから安易に音を出したことはほぼありません。無心に弾きだしてそのまま音楽がうまく流れていく、音符が目に入れば自然に指が動くというタイプではないからだとも思いますが、彼女の言葉は痛烈なものでした。

今でもその意味するところ全てを理解して把握したわけではありませんが、年々重みを感じます。聞いてくださる方々を前にして楽器を構えて最初の音を出す・・実際には私の中で音楽はもう始まっているのですがそれはさておき・・最初の一音でおよそのことがわかり、続く部分を左右もする、それが音楽の音です。

演奏家という職業を選んだ私ですが、自分自身がどんなときに音楽を聞きたいかというと、あまり頻繁に聞きたいと思いません。普段練習がすむと音はもうたくさんです。休み中でも身体から「音楽っ気」がとことん抜けない限り、楽しみのために聞こうという気にはならない。でも、こういう場合もあります。自分でしなくてはならないけれど煩雑で疲れさせられる本業に関する雑用で{こういうのは雑用とはいわないのかもしれませんが}ストレスがたまったりすると、気分を変えるために気にいっている奏者のCDをかけたりします。どういう曲を聞くかは、さほど問題ではなく、音が発せられた瞬間から表現の強さと魅力がある演奏者のものを欲してしまいます。そんな音を耳にするとたちまち癒され満たされて、また頑張るぞという気になる。不思議ですね。

カテゴリー