こんにちは!!!!!荒川洋デス。第7回目。えっもう最終回?気がついたら書きたかったことが山ほどに!笑
最後はやっぱり、オケのことを書こうかな。新日フィルではいつも素晴らしい仲間や先輩たちと切磋琢磨してるんですが、98年から入団して本当にお世話になった諸先輩たちが、定年などで、お別れしないといけない時期がくるんですね。これは、愛するオーケストラの宿命かもしれないのですが、逆にランパル氏や先日亡くなられたロストロポーヴィチ氏のように、本当は音楽家に「定年」はないわけで、なんだか複雑な思いに駆られます。でもそういう思いにさせてくれる程、たくさんの素晴らしいプレイヤーがそろっていて、その人たちの思いを発展させるも殺すも自分たち次第なんだろうなと思います。僕の修業時代は、前回書いた通りフランス。写真右にうつっているチェイ君はロシア。僕の隣に写っている白尾彰さんはスイス。みんな経験した場所は違うけれど、みんなで考えながら作りあげるアンサンブルは本当に格別です。ソロでもたくさん演奏したいことがあるんだけど、こういう場でみんなとチームワークプレイで真剣に音楽に向きあうのも素晴らしいです。
あと、最後。僕には荒川知子という、ダウン症という障害をもった妹がいるのですが、妹は仙台で家族とともにリコーダー奏者として活躍していて、一生懸命いろんなところで演奏しています。多分仙台の人にはおなじみになっていると思いますが、彼女のCDが秋にリリースされると思います。僕が作った「みんなしあわせ」、林光さんが作ってくれた「二羽の鳥、飛びながら話している」など。あと、もしかしたら、先日新日本フィル公演だった石井竜也さんのツアーでアレンジをしていたシンガーソングライター光田健一さんの新曲も入るかもしれません。請うご期待を!
あー、いろんなことが書ききれないもんです。仙台や各地でお世話になった方々すみません!アラブ料理のクスクスの話も書きたかった!仙台にはおいしいクスクスを食べられるお店はあるのかな。どなたか教えてください。ちなみにイナゴの佃煮は苦手です!
今まで読んでくださり、ムーチョグラシアス!! またコンサートでお会いしましょう!
荒川HP:http://hiroshiarakawa.com
こんにちは!!!!!荒川洋デス。第6回目。前回に引き続き、パリ時代ネタ。今回は体験した記憶のいくつかを紹介。
パリに渡り、徐々にいろんなものを見たり聞いたり、パリでの音楽体験が楽しいものに切り替わっていったんですが、特に覚えているのが、シテ・ド・ラ・ムジークでのオーケストラの授業。オーケストラの授業はサボりたい人が多くて、それを利用して「僕が代わりに乗るから、やりたくない人は言ってね」なんて言ったお陰で年平均5〜8回はやってたんじゃないかな。。あれは学生でいながらにして、フランス人たちのオーケストラでの音の出し方や、音楽的志向を体験するいい経験でした。
あと、ブーレーズの現代曲「ソナチネ」をいろんなところで吹いていた時期に、師匠のアラン・マリオンが「彼は友達だから紹介してやるよ。是非会って彼のレッスンを受けてきたらどうだ?」とのこと。あれよあれよという間に、なんとあの有名なフランスの大作曲家ピエール・ブーレーズに会いに行くことになったのです。そして当日、指定された場所はイルカムの音楽要塞のような所で(ちょうどポンピドゥーセンターの真下に位置していました。。)、厳重な警備の中、何十もの門をくぐり抜けたあと、地下8F階くらいまで下がり、僕らがよく目にする体育館の3倍くらいの部屋に通されたんですが、あるのはイスとピアノ一台。しばらく待っているとブーレーズがやってきて、「ちょっと待っててくれ、今音響をかえるから」と言ったあと、両手でパンパンと残響をチェック。約3秒位の残響に首をかしげた彼が、「もうちょっとセッコ(響かなく)にしよう、C2にしてくれ」と誰かに言った瞬間、その部屋中のすべての壁のパネルが反転し、静まり返った後、再度ブーレーズが両手を叩いて確かめると、ちゃんと1.5秒程の音響に変化。ス、スゴーイ!!で、ブーレーズはイスに一人座り、その前でソナチネを暗譜で披露。いろいろ有意義な話もたくさん聞けて、本当に勉強になりました。同時に、パリの中心の地下何十メートルの世界に、核シェルターじゃなくて巨大な音楽研究スペースが存在することにも感動。さすがフランス。800億フランもの大金を文化関連の公共支出に使うだけあって、文化への取り組みの本気度を体感した一時でした。
あとフランスでは、国中でマニフェスタシオン(ストライキ)を本当によくやっていて、鉄道のスト、パイロットのストなど様々。トラック運転手のストなんか、ペリフェリックと呼ばれるパリの環状線から他の国につながる高速道路をトラックで封鎖するという荒技をし、国中の流通をストップするようなひどいことを平気でやってました。そんなひどいストもあれば、音楽家のストも存在していて、確かアビニョンのオーケストラの経済状況を巡って、国中のオーケストラプレイヤーがヴィレット公園(当時の家の目の前)に集結し、野外コンサートをやっていたのですが、あれは聞いていてよかった。ボレロなんか、始めのスネアがプレイヤー十人同時。フルートは、やはり十何人で吹き始め、最後は巨大化したフランスオケ全部で、クライマックス。みんな有志で集まっていたらしく、みんなでいざというときに集まる結束が素晴らしーと思い感動。いやー人生は素敵です。
結局全然写真と関係ない話でしたが、写真のネコはパリ時代飼っていた「らんぱる」ちゃん。最後、らんぱるは7階からダイブしてあの世にいってしまったのですが、パリ時代を一緒に過ごした大切なネコです。
少しネコアレルギーになってしまったので、今ではあまり近寄れないのですが、そんな同じ境遇の人のために、お店を開くのが夢です。名付けて「ネコカクテルバー」。店内はカウンターになっていて、目の前がガラスで覆われていて、向こう側には猫たちがたくさん遊んでいて、それを鑑賞だけできるようにしてあり、猫たちを見ながらネコフィズ、ソルティーキャット(ドック)、ネコマティーニを味わう。。どうですか?どなたか出資よろしく!
荒川HP:http://hiroshiarakawa.com
こんにちは!!!!!荒川洋デス。いや〜昨日ヴィオラの篠崎友美さんの家で音楽仲間と飲んだコートデュローヌはうまかった!・・・じゃなくて、今回で第5回目。自分でもブログをやっているけれど、いっつも短文だから大変だなー、と思いきや、意外にも昔のことを思い出したりしてすらすら書けるものなんですネ。
今回はパリに渡ったばかりの1993年のエピソード。国立音楽大学在籍中にイダ・リベラ女史と僕のパリでの師匠になったアラン・マリオン氏とプリマ楽器のプライベートレッスンで出会い、マリオンから「パリ国立を受けてみないか?授業料は国負担だから、君は年に保険料としての150フラン(当時約3000円)しかかからないんだよ」と言われ、マリオンが何故金銭的な話からしたのか不明だが、確かに「すごい!」と思ってしまったのも事実。当時日本の音大でお世話になっていた宮本明恭先生にお伺いしたところ、「好きにしなさい!」=「行ってもいいよ!!」とのお言葉(!?)をいただき、まずはニースの講習会も含め渡仏。当時二十歳だったけど、ハラハラドキドキの連続の中毎日を過ごしました。なんせ当初フランス語がまったく喋れなかったんですから!(十何年たった今でも似たようなものですが苦笑)タバコ屋に行って「ダンヒル、シルブープレ!」なんて言っても、「コワ?、ボン、ボアラ(何?ああこれね)」ってゴロワーズが出てきたときは、異文化コミュニケーションだなーって思いきや、つまりは、まったく通じていなかったので、悔しくて、次の日「アン・パケ・ドゥ・ドゥニル・スペリュライトゥ・アラ・マント・シルブープレ!(ダンヒル・スーパーライト・ミント味いただきたいのですが!)」って言って、「イヤドプゴグレー!(うまくなったじゃん!)」と店主から一言。当初はこんなものでした。で、その後やってきたパリ国立高等音楽院の入学試験は近代フランス曲のサンカンのソナチネとドヴィエンヌのコンチェルトともう一曲、あと1ヶ月前に発表されたメルカダンテのコンチェルト。それに3分だけ新曲を見て、Salle d’orgueという部屋で初見で演奏。他にもソルフェージュの試験で歌ったりもしました。結構大変だったけど、無事合格。あとで聞いたら百何十人受けてたのに外人枠は一人か二人だけだったとのこと。つり橋を渡った後の心境でした。その年入学したのはキャリーヌ、デルフィン、チャオチューと僕。マリオンが403の部屋で温かく迎えてくれて、その後、マリオンのアシスタントをしているモイーズの最後の弟子で有名なレイモン・ギヨーのクラスへ。彼のクラスには始終聴講生十数人が聴講していて、彼らの前でエチュード数曲とギヨーさんオリジナル分散和音の練習。あまりに難しいのでつっかえていると「フェルー、オララー(やりなさい、できないのかい?)」って何度もやらされる。真っ青になりながら吹いても許してくれない。コワイー。泣。ウルルン滞在記もここまでやってみてもいいかも。
新日フィルに入団するまで6年間、この地でフランスパンをかじりながら成長していったのでした。(続く)
荒川HP:http://hiroshiarakawa.com
こんにちは!!!!!荒川洋デス。第4回目。今回は、実はギターを愛してやまない!という話。
僕は、興味があってハマるとそのすべてに没頭する癖があり、小さい頃、サッカーでもプラモデルでもなんでもやり出すと止まらなくなり、何時間もたってしまった、ということがよくありました。音楽も例に漏れず、ヨハン・シュトラウスのワルツを聴いて、やっぱりワルツでしょーって言っていた、と思ったら、寺尾聡の「ルビーの指輪」を熱唱。家にあったポーラ・ロビソンのフルートのレコードを聴いてヴィヴラートの研究をしてみた、と思ったら、ハービーマンのレコードずっと聴いていたり、いいものに関しては割とジャンル隔てなく好きになっていました。
中学では、まじめにタファネル・ゴーベールの日課練習とエチュードをやる傍ら、ザ・フーやT-REX、ヴァン・ヘイレンほか多数の音源の洗礼を受けるようになり、ある日、家にあったクラシックギターの弦を無理やりエレキギターの弦に替え(ゴメンナサイ!)、コンボのインラインに繋いでレベルオーバーにさせたマイクをマホガニーの箱の中にセットし、「ジェッ、ジェッ、ジェッー」とお決まりのスモーク・オン・ザ・ウォーター(笑)と音を奏でることに成功!あの、手作りの手応えの感動は今でも忘れられません。親父に「フルートと勉強をまじめにやるから、エレキギター買ってくれ!!」ってまったく意味の分からないお願いをしたら、「高校に進学したらギター買ってやる」との条件を出され、見事県立高校に入学、念願のヤマハのエレキギターを手に入れました。あの頃はフルートももちろん練習していたけれど、モイーズの分散和音の練習と同じくらいエレキギターでペンタトニック・スケールを練習していました。今でもきっと、なんらかの形でフルートに生かされてるんでしょうね(笑)でも結局スティーブ・ヴァイやヴァン・ヘイレンの超絶技巧は弾けなかったなあ。。
そんな体験から、大変ギターには縁があり、今でも鈴木大介さんをはじめ、様々な素敵なギタリストと共演する機会に恵まれています。人の属性ってあるものなんだろうなあ、と、つくづく実感します。
写真はここ2年くらい、大介さんとの傍らでお願いしているスウェーデンのギタリスト、マーティン・フォーゲル(Martin Fogel)。僕の親友の一人で、彼にもいくつかの曲を作り、一緒に弾いてもらっています。
こんにちは!!!!荒川洋デス。第3回目です。今日は作曲した曲を演奏する話。演奏会でいろんな地域にお邪魔する機会が多いこの頃ですが、その地の公演のために曲作りをするようになりました。これが最近の僕の趣味になってます。子供たちの前で演奏するのであれば、歌も作ります。今年1月に北海道中標津に行ったとき、「またあえる」って曲を作りました。これは自分でも結構気に入ってる曲で、あらかじめデモの音源と歌詞付きの楽譜を送っておいて、現地で子供たちの歌と一緒に演奏してきました。中標津の伝説にでてくる「ハルニレの木」「モアン川」「ヤマベ」など、その土地のエッセンスを取り入れてみた曲。中標津のしるべっと大ホールのアンコールに、各地で触れあい、一緒に歌った子供たちが壇上に登ってきてくれて、最後は何十人の子供たちと大合唱。「荒川さんとはお友達だね〜」ってすごい喜んでくれたんです。あれは嬉しかった〜(僕のHPで聴けます。)本当に子供たち、そしてスタッフの人たちに支えられた数日間でしたが、子供たちのかわいい声が忘れられません。ほかにもたくさんいろんな場所に行っていて、四日市に行ったときは絵本の「もりのなか」を、青山円形劇場のプロデュースなどを手がけている能祖将夫さんの語りと、フルートとピアノの曲を作って演奏したり、長野県須坂市のメセナホールにいたときは「メセナの丘で」という木管五重奏の曲を現地の皆さんと演奏しました。あと印象深かったのは佐賀県の唐津市に行ったとき、厳木小学校の子供たちが作った詞に曲を作って、ということになり、2ヶ月かかってなんとか今年の3月の厳木小学校の卒業演奏に間に合わせたところ、子供たちが卒業式で歌ってくれたこともありました。最近では妹の荒川知子(この話は次回)と篠崎和子さんに作った曲が、NHKの赤間裕子さんの司会の「情報テラス」にて放送されています。音楽って何かといろいろな人との縁を繋いでくれるものなんだなーってしみじみ思う今日この頃デス。
昔、ポピュラー音楽のほうで食べていきたいって思ってて、何十曲もオリジナルを作ってたこともあり、自分の好きなようにメロディーや歌詞を作るのが大好き。クラシックの道に入ってからも、素晴らしい大作曲家の音楽に触れるうちに、やっぱり自分の曲もやりたいなって思いがあります。そうそう、今作ってる「ソナチネ」ですが、全曲を完成させて「せんくら」で初演しようとたくらんでいます。それも重ねてお楽しみに。
荒川HP:http://hiroshiarakawa.com
こんにちは!!! フルートの荒川洋デス。第2回よろしくお願いします。今回はうちの母体のオケ(オーケストラ)である新日本フィルハーモニー交響楽団についての話。
小澤征爾と当時の有志メンバーで立ち上げた在京のオーケストラで、今でもクリスティアン・アルミンクが音楽監督として日々奮闘している団体です。僕が入った頃のオケはとにかく昔からピリっとしていて、それでいて人間も音楽も喜怒哀楽がたくさんある場所。よく笑うし楽しいけど、同時に演奏のインプレッションに大変厳しい一面もあり、今でもそれは受け継がれています。とにかく、ノーミスなのは当たり前で、その瞬間の楽曲分析ができていて、自分の役割を自覚していないとすぐ先輩からのツッコミがはいるという所。少なくともフルート1番のポジションはそうだと思っています。付け加えて、首席の白尾彰さんというオケ百戦錬磨でルイロの魔法使い。。先輩として尊敬できる素晴らしいプレイヤーです。僕はそんな彼の代わりを任されている「副首席奏者」をしているわけで、彼のいないときのプレッシャーは実は当時から相当なもの。だからこそ、まだまだ10年やってもオケマンとしては修業が足りん!って思うし、いつも音楽やアンサンブルに発見があり、果てしなく深く終わりがないなーって思ってます。白尾さんがどこかの記事で、「みんなで協力し合いながら出すピアニシモは、本当に素晴らしい」との記事があったけど、本当にそうだと思う。一人でピーって出るのは簡単だからこそ、交響曲の静かな楽章の最後の部分のピアニシモなんかは、よくみんなで声をかけあって「もう一回合わせようよ」って言い合う。音程一つ、フレーズの処理にしてもみんなで議論を交わす。誰が悪いとかじゃなくて、一人一人がどう立ち回ればいいのかなって考える。そうやって、考えながら、本番当日みんなでその瞬間、集中力がギューと凝縮された瞬間を体感し、終わった後みんなで「よかったよー」とか「すーばらし」とか言って讃えあう。そんな職場デス。チームワークだからソロとはまた違う。でもだからこそ音楽の役割分担、音の和声上の性質をだんだん理解してくる。それがいざ一人で吹いたときにとてつもなく血や肉になっているのが分かるんですね。面白い!
たとえば、一人でシャコンヌかなんかを吹いているとき、後ろに聞こえるはずのない伴奏が聞こえてくるんです。一人で吹いている孤独感が払拭され、欲しいと思ったコンチェルトのような伴奏が聞こえてくる。これは、ソロの他にもオーケストラで日々奮闘しているからこその、ちょっとした財産なのかなって思います。
写真はゲツヨル(日本放送)6/11放送分の収録の時。ゲストで最上君(右)出演。彼も素晴らしいプレイヤーで宮城県出身です(^_^)
こんにちは!! フルートの荒川洋デス。今回はよろしくお願いします。
とうとう「せんくら」に出ることになりました。メルシーボクー!よく「とっておきの音楽祭」には出ていましたので、ジャズフェスも含め、仙台という街が「音楽の街」として、一層華やかさが増しましたことをあらためて実感いたします。サスガ!育った街ということもあるけれども、やっぱりすてきな街です。そして、その昔、小学校1年生までは泉区旭ケ丘に住んでいて、南光台小学校に1年通っていました。
今でもたくさんのことを幼少の頃の記憶として留めています。あの旭ケ丘の起伏のある斜面と、八乙女中学校の横の公園と小山が今でも通ると懐かしい。昔の茶色いシビックや鷹のマークの白いトランザムがよく走っていた時代でした。子供の頃の記憶ってなんだろう。。南光台小学校の前によくヒヨコ売りのおじさんがいて、隣のおばさんからお金借りてヒヨコ買ってきて(親が貧乏だったのではなく、たまたまいなかったから!)、一生懸命育てたら、あのかわいいぴよぴよヒヨコにトサカが生えて、ある朝から「グェー」って鳴き出したこととか。今でもおつきあいがある親戚のおじさんが八木山のベニーランドに連れていってくれるので、楽しみにしていたこと。スポーツランドSUGOのなが〜いすべり台が大好きだったこと。南光台小学校1年生のとき(というか1年生までしかいなかったが。。)超ガキ大将で、担任の木村先生の手を焼かせていたこと。西公園の機関車を愛してやまなかったこと。ダムだった黒松の辺りに、突如家ができたこと。もっと小さい頃、旭ケ丘からバスで市内にでるとき東照宮まで大渋滞しててぐったりしたこと(笑)。台原森林公園の池の四角い石を渡るのが怖かったこと。そして、宮城沖地震があり、断水したので給水車がきて、バケツを持って汲みに行ったこと。。
30年前の記憶と今の仙台がスクランブルする時がありますが、それ以上に、未来へクリエイティブに突き進む今の仙台がたまらなく魅力的です。
今回もいろいろネタを用意して乗り込みますので楽しみにしててくださいネ。まずは一回目のブログでした!!
「荒川洋」ってどんな奏者なんだ、という方はこちらへ→ http://hiroshiarakawa.com