この記事を書き始めた頃、林さんお母様のお葬式前夜でした。
教会のオルガンを聴きながら近くの喫茶店で第一稿いれました。私にとって今年の夏は、あっという間に過ぎてしまいました。
しかし、大きなことを学びました。人と人との巡り会い、人間命あるかぎり「生きる」ことへの憧れをもたなければならないと!
さて、10月7日にロシア民謡のリサイタルを開催します、一般にロシア民謡といっても四つのジヤンルに分けられます。トロイカ、一週間などのロシア民謡、赤いサラファンなどのロシア古典歌曲、カチューシヤ、モスクワ郊外の夕べ、などのロシア歌謡、黒い瞳、などのロシア・ジプシー歌謡に分けられます。
今回はトークを交えて演奏したいと考えています。
今年の10月28日には、私の第20回目のリサイタルで、ショスタコーヴィッチ生誕100年記念して、モノ・オペラ「ラヨーク」を、一人五役で演奏します。
今日で私のコーナーは終わります。
私の文章を読んで下さり感謝します。またこのような機会を与えてくださり幸せです。
ではお元気で。仙台でお会いするのを楽しみにしています。
岸本力(バス)
今日、この記事がだされる9月1日は、私の誕生日です。この日に考えることは、人には出会いがあり別れがあることを強く感じられます。
8月12日に、いずみたく先生のミュージカル「センチコガネムシの愛」に出演しました。無事成功に終わり楽しい打ち上げの最中に、共演者の歌い手の林統子(もとこ)さんのお母様が突然倒れ、8月20日に亡くられました。人生、予想もつかないことが起きるものです。
8月26日、教会でお葬式がありました。涙流しながら、いずみたくの「見上げてごらん夜の星を」歌いました。我々このような仕事をしていると辛いものです、彼女も24日に、涙をこらえ「センチコガネムシの愛」を見事に演じました。このミュージカルは、本当は10人以上で演奏するのですが、一人五役で、二人でやりました。
内容はとってもかわいいミュージカルで、センチコガネムシの夫婦愛を通して、季節の移りゆくなかで、自然と必死に闘いながら生きる虫たちが、生きる喜び、助け合うことの素晴らしさを教えてくれ、とっても心が癒される、あったかいミュージカルです。
仙台の皆さん!演奏させてくれませんか?
今日はここまで。
岸本力(バス)
赤字を出してやるリサイタルには、なかなか苦労したものでした。
10年程前リサイタルの終わった後で、ビクターのディレエクターが、リサイタルのアンコールで歌ったロシア・ジプシー歌謡の「黒い瞳」に感動され、CDを出さないか?という話がはいったのです。
私は自主製作でロシア民謡のCDを一枚造りたいと考えていましたが、貯金は、生活費用でなくなり、ほとんど諦めていましたから、たいへん嬉しい話に、長年頑張ってきた私への「ご褒美」だと思いました。
CDの発売と平行して、日フィルとオーケストラで「ロシア民謡」を、私が中心で、東京芸術劇場で!という、この夢のような演奏会の話に、いつも心の支えだった、亡き両親に感謝しました。
私は必ず誰か、私が岐路に立ったとき導き助けてくださる人に巡り会うのです、何とも不思議です。
今回の仙台では、ロシア民謡リサイタルでアコーディオンの御喜美江さんと共演します。
私の人生の苦悩と悲しみと喜びの詰まったステージにしたいです。
この機会を与えてくださった方々に感謝します。
今日はここまで。
岸本力(バス)
私が幸運にも、日本音楽コンクールに一位に入り、続いて1974年のチヤイコフスキー国際音楽コンクールでも日本男声で初めてのチヤイコフスキー国際コンクール最優秀歌唱賞を「ボリスの死」の歌でいただいたのです。
しかし一方で、私に来る演奏会に来る仕事は、ロシア物以外のドイツ物、イタリア物など、自分が不得意とする仕事までが入り、少しずつ自分の欠点を出す結果に終わり、世間では「岸本は、もうおしまいだ!鼻っ柱が高く、勉強もせず、調子に乗っている!」などとささやかれるようになりました。焦りだけが自分を苦しめました。
そのころ文化庁在外派遣の話があり、イタリア、オーストリアの留学の話があり、ミラノに住み勉強したのです、その頃ロシアには政治的に無理でしたから。
帰国後も、発声のやり方を変えた為、さらに声のバランスが悪くなり、完全に日本で演奏する望みを失ったのです。そのどん底の時、やはり自分の原点であるロシア民謡「ヴルガの舟歌」の力強い励ましの歌で、私自身が蘇ったのです。もう後戻りは出来ない、自分が信じたロシア物の歌をしっかり歌って行こう!
その為には自主企画リサイタルを開催しょうという強い決心をしたのでした。このリサイタルを開くことにより、世間に「岸本力は死んでいないぞ!」と証明するための、一歩でした。
今日はここまで。
岸本力(バス)
私の歌に対する意欲は、ロシア民謡から始まりました。ロシア民謡の持つ旋律からくる哀愁に非常に惹かれました。そして民謡から芸術歌曲へと心が動かされ、チヤイコフスキー、リムスキー・コルサコフ等の歌曲を次ぎから次と勉強し始めたのです。
大学の図書館で手にするロシアの楽譜は誰にも手がついていない、真新しい譜面に感動し、自分の、新しい歌の道に感動があったのです。しかし、友人や先輩達は、私のロシア歌曲への熱い思いに、呆れ、皆が私を馬鹿扱いでした。「岸本は、あんな暗い音楽を愛しているなんて!」と言われていました。大学卒業試験で、ムソルグスキー作曲オペラ「ボリス・ゴドノフ」の“ボリスの死”を歌いました。この歌は、ボリスが自分の行いを責め、苦しみ死んでいく様子を歌ったアリアです。
私が、中学三年の夏に、父を亡くしていましたので、その死に様が、突然であり当時の私には、父の死は深い悲しみであり、今でもその悲しみが永遠に続いていますが、父への思いを込めて歌った「ボリスの死」のアリアは、私自身が信じ難い二番という成績で卒業する結果となったのです。
その年の秋の日本音楽コンクールで、この「ボリスの死」を本選で、身振り手振りのアクションを交え舞台上で泣き叫びながら歌ったのです。結果は審査員25人中23名が私に一位をつけたのです。それは夢のような出来事でした。父の死が私を高めたのです。今日はここまで。
岸本力(バス)
念願の東京藝大に入学しました。当時、今から30年前は大学の教育方針は、声楽についてもドイツ音楽が中心であり、次にくるのはイタリア音楽でした。当然私達学生にとって、ドイツリートをいかに上手く歌えるかが勉強の中心でした。しかし、田舎者の私にとって、ドイツ語の繊細な発音、がっちり構成されたメロディーを正確に歌うことが不可能でした。だんだんと歌に対する意欲がなくなりました。
大学一年生の終わり頃、自分にはクラシック音楽が向いていないと悟り、せっかく苦労して入った「藝大をやめてしまう!」という思いで、故郷の茨木へ帰り、母の田んぼの手伝いをやりながら、ふとロシア民謡「ヴォルガの舟歌」「鐘」などを農業の労働と共に歌っていたのです。当時ダークダックスなどが男声四人で歌っていたのを自然と耳にしていたからでしょう。
そのロシア民謡には、自分が力一杯表現できる「悲しみ、苦しみ、喜び、怒り」が入っていたのです。田んぼを耕しながら歌ったのは「ヴォルガの舟歌」で、なんとも言えない快い、自分が癒される「思い」を感じたのです。
私は「これだ!」と思い、藝大に復学したのです。
今日はここまでです。
岸本力(バス)
はじめまして、バス歌手の岸本力です。仙台でのロシア民謡のリサイタル楽しみにしています。
私が何故ロシア民謡を好きになったかをお話ししましょう。
私の生まれは、大阪の茨木で父が大工さん、母が農業をやっていました。その四人兄弟の末っ子として生まれました。私の子供の頃は、家の周りは田んぼばかりで、いつも日が暮れるまで、泥んこになりながら遊んでいました。いつも土の感触があったのです。
実際、小さい頃から、田植えの手伝い、稲刈りの仕事と、家族中でやっていました。その環境の中で育った自分が、突然、声が良いというだけで、声楽を始めたのですから、それも高校三年生でしたから、音大受験のためのピアノはバイエルから、声楽はイタリア歌曲、コーリュブンゲンなど、こんなに多くのことを!するなんて! その結果二年間の浪人の結果、やっとの思いで東京芸大にはいりました。
この続きは明日!
岸本力(バス)