
19世紀ギターの名器“ガエターノ・ガダニーニ(1829)”
最後に少し真面目なお話しを。
今回の演奏会では使用する予定はありませんが、19世紀ギターについてです。最近では比較的多くのギタリストによって演奏されることの多い19世紀ギターも、つい15年ほど前に私が演奏会で取り上げたときは随分批判的なご意見も多く頂きました。
25年ほど前ですが、19世紀に作られたギターを初めて弾いた時のショックは大変なものでした。その時代に書かれた楽譜が、まるで今書かれたように新鮮に聴こえたのを覚えています。10年程経って、やっと理想的な状態のラコート(1840年作)と出会いました。僕にとって新しい表現のための道具との出会いでした。今のギターとはまるで発音が違うのでタッチを研究し舞台で弾けるようにするのにさらに数年がかかりました。そして14〜5年前から録音や舞台で使い出しました。初めてですから嬉しくて仕方ありません!
ところが最初から猛烈な周囲の反対がありました。信頼していたギター製作家の河野賢さん(今は亡くなられましたが、桜井正毅さんの師匠で世界的な名工)に、「あんな古いもので音楽をするなんて時代錯誤だね。僕たちが一所懸命作ってきた現代の表現力のあるギターの音をぶち壊す行為だよ!」とまで言われました。
その時にこう返事しました。「先生、僕たち演奏家は役者です。楽器はその衣装です。江戸時代に作られた芝居を演じるのに着物を着てどこがいけないんでしょうか?時代劇を現代の背広姿で演じている方が不自然でしょう?」河野さんはしばらく黙っていましたが突然「アハハ、君そりゃ屁理屈だろ〜!」と笑い出しました。でも以後、一切僕の19世紀ギターのことを悪く言わなくなった。このときの理屈は屁じゃなかったと今でも思っています。
表現は、表現する人とそれを受けとる人がいて初めて成立します。(そうでないという意見もあるのですが、ここでは音楽を表現するってどういうことかを話したいので・・・)で、ここで難しいのは表現「力」です。相手に伝える力の強い人を「表現力がある」弱い人を「表現力がない」という言い方をします。しかし受けとる人のアンテナの感度が悪かったり、許容範囲が狭かったらどうしましょう?非常に「表現力がある」人も、「表現力がない」と見なされてしまいます。
河野さんとは表現力(この場合は「説得力」かな?)でその場では勝ったのですが、今日もなお19世紀ギターを使って聴衆を「納得」させるのに躍起になっています。演奏会じゃ、音がすべて。言葉は使えないからねぇ・・・。
一週間お付き合い頂いてありがとうございました。
それでは、皆様、「せんくら」の会場でお会いしましょう!
福田進一(ギター)