芸大4年の秋。ドイツ政府の給費留学制度の試験を受けた。恥ずかしながら、1ドル360円の時代である。すでに都響に入団していたが、月給8万円、親の支援を望めない貧乏学生には渡航費用30万円さえ、逆立ちしても出せない。留学試験が憧れの師ツェパリッツ先生に会える唯一の道だった。それだけに、その試験に合格出来たことは、この上ない喜びだった。
翌年6月、友人の見送りを受けて出発した空港は、恥ずかしながら「羽田」だった。もっと言うなら、途中アンカレッジで「うどん」を食べてのドイツ入りだった。(当時ヨーロッパへ行く時、東西冷戦下で北極を経由していた。)ハンブルク空港の芝生の緑が目に鮮やかだった。期待と不安が入り交じる、と言うよりも初めて見る外国の景色に、青年村上の小さな胸は押し潰されそうだった。取り敢えず行く街はハンブルク近郊のリュネブルクで、まずは空港からタクシーで駅へ。タクシーを降りて駅舎を見上げたら、なっ何と、日本で愛用していた「NIVEA(ニベア)」の超どでかいブルーの看板が目に入った。その看板を見たとたん、何故か気持ちが落ち着いてきた。「NIVEA」が効くのは肌荒れだけではなく精神安定剤としても有効だったのである。
リュネブルクの「ゲーテ学院」で言葉の勉強をさせてもらったが、色々な国から「志」を持った青年が集まり、片言のドイツ語で語り合いながらお互いに励まし、勇気づけ合うという貴重な体験から留学生活が始まった。