村上満志(2)恥ずかしながらの「昔話2」

2007.07.09| 村上満志

その昔、東北、北陸、中国、四国、九州などの各地方に一大学、教育学部に特音課程と言うものが設けられた。私の卒業した1つ目の大学、島根大学は中国地方のそれだった。

恥ずかしながら1967年入学で、もう40年も前のことになる。

1学年の定員は30名で、だいたいどの学年も男子10名、女子20名という構成だった。学業成績の芳しくない生徒の集まる私立の男子校(女性は売店と事務のオバサンのみ)で嫌々ながらの3年間を過ごした我が身には、大学での生活そのものが革命的な変化だった。稚拙で訳の分からない練習を繰り返していたと思うが、結果を求められる事もなく楽器にぶらさがっているだけで、多少なりとも「自」を見出せる喜びを感じていた。そしてその上、多くの女性が同じ空間で同棲?する環境でそう出来ることは、恥ずかしながら振り返れば、これまで過ごし来た時間の中でもかなり「パラダイス」に近いものだったのかもしれない。

そんな学生生活の3年になる前の春休みだったと思う。その街に唯一ある「花のキャバレー」(その当時の文化施設?で、若かったり、若くなかったりする女性がアルコール飲料を持って待ちかまえ、クライアントを接待する大人の社交場)でピアノを弾く先輩から、一緒にそのキャバレーでバンドをやってくれないかとのお誘いを受けた。その先輩は一言で言えば、はなはだ潔く生きてこられた人で、今でも親交を結んで頂いている。

多少の躊躇はあったが、「ここで稼いで東京へ行ってコンバスのレッスンを受ける為」と割り切って、学生とバンドの二重生活が始まった。

そんなある日、声楽科の後輩が、どこかに捨ててあった自転車を自分で修理して、私に「どうですか?」と言ってきた。うかつにも購入してしまった。500円で!

2・3日後、花のキャバレーで仕事を終え、閉店まぎわの「おでん屋」でちょいと一杯、飲めないアルコールを飲み自転車のペダルを踏んで帰路につく。橋にさしかかった。どんな橋でもなだらかながら多少登り下りの坂になっている。登り始めて4回、5回と踏み込むペダルにかかる負荷が増してくる。何度目か息を止めて「えいっ」とばかりに右足を踏み込むと同時にポロッ、カラカラ?!ペダルが自転車から勢いよく地面へ。横転はまぬがれたが、坂を押して登り、そこから先は、恥ずかしながら、ネクタイを締めた小意気なバンドマンが左足1つペダルの自転車で夜の街へ消えていった。

 

カテゴリー