村上満志(7)恥ずかしながらの「昔話7」

2007.07.14| 村上満志

芸大在学中に当時ドイツから、いらっしゃった指揮科の客員教授の先生と親しくなった。在学中に東京都交響楽団へ入団し、学生と仕事の2足のワラジを履いていて、大学の授業(オケ)に30分だけ出て、すぐ仕事としてのオケへ行くと言うことがしばしばあった。その先生との「絆」のおかげで30分で「出席」を頂いていた。

しかし、それだけの為に懇意にして頂いたのではなく、その先生のお人柄も素晴らしかったし、奥様も、とても優しく、おおらかな方で、ドイツ語を教えて頂いていた。

ドイツでの留学を終えて日本に帰り、恥ずかしながら結婚する仕儀に至り、親しくして頂いたその先生に、「お仲人」をお願いした。
「今まで披露宴には何回か出席したが、式には臨んだことがないのでとてもインテレサント(興味がある)だ。」と引き受けてくださった。

その当日、神前に畏まり神主の祝詞が始まった。そのドイツ人の先生は、エルビン・ボルン、奥様はエリザベス・ボルンと言うお名前だった。

残念ながら、その神主さんの頭には「ボルン」という語彙はなかった。

「高天が原」に始まる祝詞は読み進まれ、新郎、新婦の名前に続き仲人の名前が静まりかえった式場に響き渡った。「エルビン・ボイル(!)、エリザベス・ボイル(!)」

居並ぶ両家の親戚は、今日初めて会った外国人の名前に気付くはずもない。

ただ、新郎、新婦の頭の中にのみ、「ボイル」の言葉と同時に「ゆで卵」が浮かび上がってしまった。本来そうあってはならない場所であっただけに、必至の思いで笑いをこらえていた。

言うまでもなく、ボルン先生ご夫妻は神妙に畏まったままだった。

何等、音楽と関係のない話の数々で大変失礼致しました。そんな村上が恥ずかしながらコントラバスと言う朴訥な楽器で皆さんにお話させて頂きたいと思います。

10月6日、太白区文化センター展示ホールでお待ちしています。

 

村上満志(6)恥ずかしながらの「昔話6」

2007.07.13| 村上満志

ベルリンでの留学生活は、月額750D.M(ドイツ・マルク)のドイツ政府からの奨学金のみで賄われていた。その額でオペラも聴けたし、ベルリンフィルの本拠地フィルハーモニー・ザールのポディウムと言う指揮者の正面の席のチケットも買えた。そして時々は先生にも、もぐり込ませて頂いた。

そんなベルリンでの生活で、冬の到来と共に必要不可欠なのが「コート」。ある日仲間とベルリンのスーパーマーケット(確かBilka ビルカ?と言ったと思う)へコートを買いに行った。

時代と国は違うが、1階食品、2階が衣類売場のヨークマート?もしくは西友?と言った感じである。2階の角の方に、ずらりと並んだコート、多くはイミテーション皮の150~200D.Mの物だった。しかし、人目を憚るように外れの方に暖かそうなラム(子羊)の内側に起毛した、その上柄が灰色と白のまだら模様、一目でものほん(本物)と分るコートが上等そうなハンガーに鍵つきで掛かっていた。値段は750D.M。1ヶ月分の奨学金と同額!!仲間と一緒に、ひやかし気分で店員に鍵を開けて呉れるように頼むと、「買いもしないのに、東洋の貧乏学生が!」と、口では言わなかったが、顔に書いてあった。店員が渋々鍵をはずしたコートに手を通すと、恥ずかしながら、初めて感じる感触。「暖ったか、温ったか、こんなコート有ったか?」さげすんだ顔を見返してやりたくもあったが、殆どはずみ(・・・)で「お買上げ」してしまった。

店を出て、買ったコートの暖かさ以上に、寒くなった懐具合に身震いした記憶は、今も残っている。

灰色と白のまだら模様がかもしだす雰囲気から、そのコートはそれからしばらく「象アザラシ」の異名を欲しいまゝにした。

村上満志(5)恥ずかしながらの「昔話5」

2007.07.12| 村上満志

芸大4年の秋。ドイツ政府の給費留学制度の試験を受けた。恥ずかしながら、1ドル360円の時代である。すでに都響に入団していたが、月給8万円、親の支援を望めない貧乏学生には渡航費用30万円さえ、逆立ちしても出せない。留学試験が憧れの師ツェパリッツ先生に会える唯一の道だった。それだけに、その試験に合格出来たことは、この上ない喜びだった。

翌年6月、友人の見送りを受けて出発した空港は、恥ずかしながら「羽田」だった。もっと言うなら、途中アンカレッジで「うどん」を食べてのドイツ入りだった。(当時ヨーロッパへ行く時、東西冷戦下で北極を経由していた。)ハンブルク空港の芝生の緑が目に鮮やかだった。期待と不安が入り交じる、と言うよりも初めて見る外国の景色に、青年村上の小さな胸は押し潰されそうだった。取り敢えず行く街はハンブルク近郊のリュネブルクで、まずは空港からタクシーで駅へ。タクシーを降りて駅舎を見上げたら、なっ何と、日本で愛用していた「NIVEA(ニベア)」の超どでかいブルーの看板が目に入った。その看板を見たとたん、何故か気持ちが落ち着いてきた。「NIVEA」が効くのは肌荒れだけではなく精神安定剤としても有効だったのである。

リュネブルクの「ゲーテ学院」で言葉の勉強をさせてもらったが、色々な国から「志」を持った青年が集まり、片言のドイツ語で語り合いながらお互いに励まし、勇気づけ合うという貴重な体験から留学生活が始まった。

村上満志(4)恥ずかしながらの「昔話4」

2007.07.11| 村上満志

春は野に舞う蝶と戯れ、夏は声楽科の学生達と競うような牛蛙の合唱に心和ませ、秋には宍道湖に沈む夕陽にもの想い、そして冬には深々と降り積る雪を窓ごしに眺めながら、ウラッハ(ウィーンのCla奏者)の奏でる「ブラームス」を心に刻み鬱々とした青春を感じていた。そのようにして田舎の大学で何の疑いもなく、何らかの結果を求められる事もなく生活していた。

恥ずかしながら、まるで4年間がそのまま額縁に収まりそうな、文字通り青春だった。

多くの仲間は特別教科(音楽)教員養成課程のその名のとおり、教員採用試験を受け、社会へと羽撃いて行った。私もそうなることに左程の違和感は感じていなかったが、「過ごしてきた4年間を自分なりに検証したい」とも思ったし、「もう少し楽器を弾いていたい」とも思った。その結果、国立の音楽大学、つまり芸大受験という事になった。2回目の大学受験だったので親にも言えず、すでにサラリーマンをしていた兄に無心し、自らも手持ちのオーディオ機器を後輩に買ってもらうなどして、受験資金を捻出した。

しかしお金の工面よりも、勉強などの受験準備の方が大変だった。4年間は、全てを忘れる為にあったので、現役受験生同様一から覚え直しである。その上卒業の為の単位も沢山落としていたので、それを拾い集めるのもまた大変。

演奏技術の面でも、ただひたすら何の基準も持たず自己満足的練習を繰り返していたので、「自分がどんなレベルに居るのか?」という不安も大きかった。

結果的に合格したが、第三次の最終発表を見たとき、周囲で飛び上がって喜ぶ現役の受験生のようには喜べない自分が居た。合格した喜びよりも、もうこの道から逃れられないという気持ちの方が大きかった。

もし受験に失敗していれば、1年間の就職浪人を経て、それなりに熱血先生になっていたと思う。

恥ずかしながら思う。

人が生きる時、取り敢えず頑張らなければと思うが、結果は多分に「はずみ」とか「成行き」に翻弄されるようにも!!

村上満志(3)恥ずかしながらの「昔話3」

2007.07.10| 村上満志

当時の教育学部に科せられた教育実習の期間は、自分のいた課程だけがそうだったのか?6週間もあった。中学校2週間、高校2週間、また中学に戻って2週間、4年生になって早い時期にあった。

恥ずかしながら、夜の生活(花のキャバレーでのバンド生活)も続けていた。朝6時過ぎに起床、8時には学校に居なければならない。流石に体力、精神力とも限界を超え2、3日休んでしまった。それでもなんとか迎えた最終週、くじ運悪く「研究授業」なるものを引き当ててしまった。要するに他の実習生の晒し者になって授業をするのである。授業のあとの反省会で枝葉末節をとらえて、「そこがこうだ、ここがあゝだ」と言う他の実習生の戯言を聞かされた。「そんなくだらない事を気にしながら、君らは授業をしているのか?」と言う気持ちをぐっとこらえ、ご説ごもっともと言う顔で聞いていた。

実習生活の最後の方でクラス担任から頼まれ「道徳」の授業もやった。恥ずかしながら、「男女の敬愛について」である。

1時間滔々としゃべりまくった。曰く「君達の本分は学業にある。しかれども男子が女子を想い、女子が男子を想う心を育むことは劣らず大切な事である。夏の太陽に咲き誇るヒマワリのように、山の岩陰にひっそりと咲く名も知れない花のように。それぞれにその気持ちを大切にすべし・・・・・」

授業の後、所謂ラブレターが何通かクラスで飛びかったと聞いた。してやったり。

時を経て、卒業間近に大学の弦楽合奏定期でソロをさせて頂いた。音楽の授業のおかげか、道徳の授業のおかげか?受け持ったクラスの殆どの学生が半年以上の時間を越えて演奏会に来て呉れた。

研究授業であげ足を取った実習生の君達、「大切なことは、そんな所にはないんだよ!!」

村上満志(2)恥ずかしながらの「昔話2」

2007.07.09| 村上満志

その昔、東北、北陸、中国、四国、九州などの各地方に一大学、教育学部に特音課程と言うものが設けられた。私の卒業した1つ目の大学、島根大学は中国地方のそれだった。

恥ずかしながら1967年入学で、もう40年も前のことになる。

1学年の定員は30名で、だいたいどの学年も男子10名、女子20名という構成だった。学業成績の芳しくない生徒の集まる私立の男子校(女性は売店と事務のオバサンのみ)で嫌々ながらの3年間を過ごした我が身には、大学での生活そのものが革命的な変化だった。稚拙で訳の分からない練習を繰り返していたと思うが、結果を求められる事もなく楽器にぶらさがっているだけで、多少なりとも「自」を見出せる喜びを感じていた。そしてその上、多くの女性が同じ空間で同棲?する環境でそう出来ることは、恥ずかしながら振り返れば、これまで過ごし来た時間の中でもかなり「パラダイス」に近いものだったのかもしれない。

そんな学生生活の3年になる前の春休みだったと思う。その街に唯一ある「花のキャバレー」(その当時の文化施設?で、若かったり、若くなかったりする女性がアルコール飲料を持って待ちかまえ、クライアントを接待する大人の社交場)でピアノを弾く先輩から、一緒にそのキャバレーでバンドをやってくれないかとのお誘いを受けた。その先輩は一言で言えば、はなはだ潔く生きてこられた人で、今でも親交を結んで頂いている。

多少の躊躇はあったが、「ここで稼いで東京へ行ってコンバスのレッスンを受ける為」と割り切って、学生とバンドの二重生活が始まった。

そんなある日、声楽科の後輩が、どこかに捨ててあった自転車を自分で修理して、私に「どうですか?」と言ってきた。うかつにも購入してしまった。500円で!

2・3日後、花のキャバレーで仕事を終え、閉店まぎわの「おでん屋」でちょいと一杯、飲めないアルコールを飲み自転車のペダルを踏んで帰路につく。橋にさしかかった。どんな橋でもなだらかながら多少登り下りの坂になっている。登り始めて4回、5回と踏み込むペダルにかかる負荷が増してくる。何度目か息を止めて「えいっ」とばかりに右足を踏み込むと同時にポロッ、カラカラ?!ペダルが自転車から勢いよく地面へ。横転はまぬがれたが、坂を押して登り、そこから先は、恥ずかしながら、ネクタイを締めた小意気なバンドマンが左足1つペダルの自転車で夜の街へ消えていった。

 

村上満志(1)恥ずかしながらの「昔話1」

2007.07.08| 村上満志

今年4月から小田急線「新百合ヶ丘」駅、徒歩4分の場所に大学まるごと引越した「昭和音楽大学」で講師をしている。

恥ずかしながら、そろそろ暦が還える年近くまで生きてきて、自分の生活の一部とはいえ、このような新居での生活に遭遇出来るとは思いもよらなかった。

人生の成行きで大学を2つ卒業してしまった。1つ目の大学は山陰の古都、松江にある島根大学。この大学を卒業した年、私の卒業を見計らったかのように(まさか!!)この世のものとも思えぬ景観を呈していた学生寮が取り壊され、立て直された。

それから4年後、2つ目の大学、東京芸術大学においても、もと「陸軍練兵場の宿舎」だった、殆ど臭うような香り高き学生寮が、またしても私の卒業と同時に立て直された。

時を経て、自分の住居を購入した時も、恥しながら中古住宅。事程左様に新築の建物に縁のなかった私が、新築なった校舎で学生達と一緒に勉強出来る喜びを満喫している。

大学も学生もそして自分も、何かを変えられるかな?!

 

土曜日 

2006.06.17| 村上満志

定期演奏会2日目は、G.P(本番前練習)開始が午後4時半。土曜日は学校も休みなので、となり街、福島から音大進学を目指す高校生が来宅。

軽く昼食を取ったら、昨日の本番を自分なりにチェックし、本番会場へ。今日は演奏会の後、そのまま自宅のある千葉まで走るので、翌日から次に仙台に来るまでの間、日を追ってスケジュールを考えながら必要な荷物を整える。仙台での生活も5年が過ぎ、楽譜、CD、時には着るものが、今どちらにあるのか、千葉か仙台か、分からなくなってしまう。長引く二重生活のせいか、単なるボケの始まりか!!

あっという間の一週間。

それでは、10月の「仙台クラシックフェスティバル」会場でお待ちいたしております。

金曜日 

2006.06.16| 村上満志

本番の日の朝は、可能な限り寝床に身体を横たえるようにする。というより、そうしたいのだが・・・・・、歳のせいか、部屋が明るいせいか、何だか目が覚めてしまい、起きだしてしまう。

朝食を済ますと、掃除、洗濯。単身赴任の主夫の仕事をこなし、一息いれて今日の本番をシミュレーション。1日目の本番の後は、やはり多少でもアルコールが入る方が健康的でしょう。

木曜日 

2006.06.15| 村上満志

定期演奏会へ向けてのオーケストラの練習は通常3日間。3日目の練習は、そろそろ明日の本番を意識して臨む。多分、他の楽団員も多少の違いはあっても、それぞれに3日間の自分なりの組み立て方を持って練習に臨んでいると思うが、楽団員がそう思っても、時々「何で3日目にこんな練習の仕方になるの?」と言いたくなるような指揮者もいる・・・、確かにいる。

練習の後はジュニアオーケストラの指導。我が子よりはるかに年下の未来の音楽家を相手に奮闘2時間!

水曜日 

2006.06.14| 村上満志

朝10時半からオーケストラの練習。都内のオケにいたとき、通勤に1時間以上かけていた頃のことを思えば、楽だ!10時半もそんなに早く感じない。

練習終了後、今日は楽団員集会。オーケストラにも、それなりに問題はあるのです。この日もうひとつの仕事(?)は、ある新聞社の方が一楽団員の立場で仙台でのコンサート専用ホール建設運動に取り組んでいることを記事にしてみたいとのことで面談。マスコミのご助力に感謝!!

今日は帰宅後、少し時間がある。来週名古屋の音大で棒を振ることになっているので、その勉強。モーツァルトの交響曲第40番g-moll、いい曲ですね。

火曜日 

2006.06.13| 村上満志

2週間後に発表会を控えた生徒さんと朝9時半に勉強開始。11時過ぎまで一緒に頑張って、いよいよ仙台フィルの練習へ。今日は今週末の定期演奏会のための練習初日。午後1時、音出し。終了予定は6時。

ゴッツァイダンク(ドイツ語”天の恵み”)。6時まで30分を残して練習終了。仙台にある企業の支店長の方々の集まり(金融経済懇話会)があり、仙台フィルの仲間と3名で駆けつける。話を交えて40分くらいのミニコンサート!話の内容はコンサート専用ホールの必要性。

月曜日 

2006.06.12| 村上満志

朝6時起床。6時半出勤。早い。眠い!

100km以上離れた音楽大学で9時にレッスンを約束しているからだ。首都高速という難関を越えるには100km走るのに2時間半は読まなければならない。

12時半までその音大で頑張り、午後2時半に授業が始まる都内の音大付属高校へ向かう。4時半までのオーケストラの授業に参加して、その後は5時に約束した大学の方へ。7時近くまで一緒に勉強して、さて、それから、仙台へ東北道をひた走る。スピード違反をしないように、でも11時までに仙台の拙宅にたどり着く。少々長い月曜日が暮れる。

2006年06月11日

2006.06.11| 村上満志

はじめまして。コントラバスの村上満志です。仙台フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者として活動する一方、東京都内をはじめとする音楽大学での講師としての活動などもあり、自宅のある千葉と仙台を“行ったり来たり”の生活を送っています。

ところで、突然ですが、コントラバスがチェロと同じ音符を見て音を出した時、実はチェロよりも1オクターヴ低い音を出していることをご存じでしたか?そんな楽器ですので、独奏する時は逆に普段オーケストラで演奏するよりも殆ど1オクターヴ高い音域を“行ったり来たり”する状態なんです。

なので、ソロをする時は、それなりに演奏する上での大変さもあるのですが、またコントラバスならではの味わいもあります。10月の「仙台クラシックフェスティバル」で、そのへんも聴いて頂ければと思っています。というわけで、今週は、そんな大きな楽器と自らも向き合い、若い人たちとも一緒に勉強している村上満志の一週間を紹介させてください。

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