「せんくら」に出るのだからお前もブログを書けと言われて、ありがたくやらせていただく山下洋輔です。ブログというのは、日記や身辺雑記と同じで、面白いと思うことや最近巻き込まれて困ったことやびっくりしたことや嬉しくて飛び上がったことやもう我慢できないテメエころす!というようなことを書くんですよね。でも、そういうの、おれ月刊誌で引き受けていて、毎回出しちゃってるんだよなあ。「猫返し神社創設話」や「追突され事件」や「豚の丸焼きパーティ」なんて面白いけどまた書くのも気がひけるって感じで。
なるべくダブらないようにと思うと、やはり仙台の思い出かなあ。ずいぶん早いうちからジャズグループで行っているんですよ。その時代ごとに必ず強力なジャズ好き集団がいて「あいつら一度呼んでやろうか」っていうわけですね。サンバ好きの溜まり場だった「サラ」というライブハウスにもよく行ったなあ。サンバが日本でこんなに普及する前だから凄い先見の明だったんですね。
そういうライブ一派とは別に伝統的なジャズ喫茶というのもあって、 マル・ウォルドロンの名前からとった「マル」が国分町にありましたね。石油ストーブと珈琲の匂いという昔ながらの雰囲気で格好いいママがいました。きっとこういうのお好きだろうと思って、ある時、作家の村松友視さんをお連れしたことがあるんですけど、村松さんカウンターに座ったらぴたりと決まっちゃって、まさに昔出ていったままのマスターが今帰って来たっていう風情なんですよね。それでレコードのリクエストが「紅茶のオリが浮かんでくるようなジャズってありますか」だもんね。するとすかさずママが「はい」と言ってジャッキー・マクリーンの「ニュー・ソイル」をかけたのには驚いた。どっちもどっちっていうか、これってまさに村松友視の小説の一場面ですよね。いやあ、まいったまいった。
って勝手に感心しているお前はクラシックのフェスティバルに出るんだろう、何をやるんだ、というご質問はごもっともなので、次回からはその辺の事情もお知らせしたい思っております。
「せんくら」では「ラプソディ・イン・ブルー」を山形交響楽団、指揮・飯森範親さんでやらせていただきます。この曲を最初にやったのは一九八六年のことですからもう二十年になるんですね。大阪フィルが声をかけてくれて岐阜でやったんですが、何しろこっちは譜面を見るのが嫌でジャズ・ミュージシャンになった人間ですから、スコア通りの音を弾くのは大変なんです。でも三個所あるカデンツァを全部自分のアドリブにするというアイディアを手がかりに引き受けました。その初演の時は打ち合わせをしていた石丸寛さんが急病になって当日に松尾葉子さんがおいでになりました。いきなりという感じでやっちゃったんですが、あとで松尾先生が「即興ばかりなのでオケと合わせるのが大変だった」というユーモラスなエッセイを書かれているのを見て、やっぱり、と思った次第です。確信犯でアバレましたから、もうこれっきりでこういう機会はないだろうと思っていたんですが、この初演が話題になったせいか、その後色々なオケから声がかかるようになったのは望外でした。「変な奴がいるから一度呼んでみよう」という洒落気のある方がオケの世界にもいらっしゃるんですね。
というわけで僭越ながら「ヤマシタ版ラプソディ」というようなものができあがっています。どうかお楽しみください。指揮の飯森先生とは、神津善行さんのプロジェクトで一度お会いしました。シンフォニーと邦楽と阿波踊りとジャズ・ミュージシャンを見事に仕切られたのを見ていますので、なんの心配もしておりません。再会を楽しみにしております。
「ラプソディ・イン・ブルー」をやるようになって世界が広がりました。交響楽団というものはとても奥が深い世界ですね。N響の首席オーボエ奏者で指揮もやるエッセイストで研究家の茂木大輔さん(こういう肩書きになっちゃうけど本当だから仕方がない)とは古い知り合いで、交響楽団の素晴らしさを彼が本に書く前からよく聞かされていたのですが、本当にそれを実感しました。
ちなみに茂木さんは若い時から我々のやるフリージャズの追っかけをやってくれていて、ドイツ留学の最初の演奏がベルリン大学でのジャズ講座への飛び入り演奏でピアノでフリージャズをやったそうですが、こういうジャズへのシンパシーを持つ楽団員の方も数多くいるという発見も嬉しいものでした。
色々なオケと指揮者で何度もやるたびに気持ちが良くて、とうとう野望が膨らむんですね。こういう音楽を自分自身の曲でやったらどんなに気持ちがいいだろうって。そういう時期に東京オペラシティからニューイヤーの特別プログラムで何かやらないかっていう話があったんです。あそこの大ホールはタケミツメモリアルと命名されていて、武満さんがジャズが大好きだったところから、新年特別興行としてジャズマンを呼ぶのもよいだろうっていうことだったんですね。ところがあの場所が東京フィルハーモニー交響楽団の本拠地でもあると知ってこちらの野望が炸裂しちゃった。「東京フィルを貸していただけたら、ピアノコンチェルトを書いて初演します」思わず大ボラ吹いたんですが、これが「面白い」ってんで受けられちゃった。2000年の初演を目指しての1998年頃の話です。これが今につながる苦難と喜びの始まりとなりました。続きは次回で。
自分のコンチェルトを書くなんて大言壮語したのには実は理由があるんです。1998年公開の今村昌平監督の映画「カンゾー先生」の音楽をやったのですが、この時に共同作業をしてくれたのが、当時すでに気鋭の映画音楽作曲家で編曲家だった栗山和樹さんでした。小編成ながら弦のアンサンブルを使いジャズバンドも使って作った音楽は、毎日映画音楽コンクールで最優秀賞になったり、日本アカデミー賞の優秀賞をもらったりしました。この時に栗山さんにオーケストラのことを含めて色々なことを教わりました。その年の内に「ラプソディ」公演のアンコールピースとして「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」をオーケストレーションしてもらい、デビッド・カンゼル指揮のシンシナティ・ポップスでやったりしています。つまり、オペラシティから2000年の話が来たその頃は、作曲や編曲やオーケストラについて自然に猛勉強をしていて何か手応えも感じていた時期だったんですね。「カンゾー先生」の興奮の余波があり、それからこれも絶対関係あると思いますが、その年、我が愛する「横浜ベイスターズ」が25年ぶりに優勝するという大事件があって、もうこれは脳天炸裂「何でも出来る妄想」のガイキチになってしまったのも当然だと思われます。
それから一年余の後、果たして曲はできたのでしょうか。以下次回。
それからの一年余りの間、どうやって曲を作ったのか。確かカンヅメ合宿は5回以上はやったと思いますね。早春の伊豆高原ではキーボードをコンピュータにつないで第一楽章全部をイメージして即興で弾いていくということをやりました。しかし、機械に採譜された楽譜はとても人間の読めるようなものではなく、これを正常の楽譜に直していくのはこんがらがった遺伝子の鎖をほぐしていくような作業でした。しかし、その中に自分のやりたい事が全部詰まっていると信じて、解きほぐしていきました。夏の岩原、秋の山中湖畔、都内のホテルと時間をとっては集中しました。またツアー先の弟子屈では、空いている時間に使わせてもらったホールのピアノで、ある場面のオーボエのメロディをつかんだことをはっきり覚えています。
このコンチェルトを作るについては栗山さんと大原則を二つ確認しました。
一つは、通常の二管編成で通常のリハ時間で出来るものという制約です。勿論、委嘱作品を書く作曲家ですから、ワガママは言えると思うんです。「ワシの作品には寺の鐘が百個必要だから必ず揃えるように」なんてね。でもそういう作品の演奏の機会は一回だけかもしれない。ジャズコンボでも面白い刺激的な事は出来る、ビッグバンドなら大編成だ、という感覚の我々から見れば、通常の二管編成のオケは音の宝庫です。面白いことが出来ないわけはない。その編成なら再演が可能だし、また再演出来なければ意味がないと考えました。
二つ目は、譜面はしっかりオーケストラの流儀で書いて演奏者の方々に余計な負担をかけないというものです。コードを書いてアドリブと指示しておけば15分演奏するジャズマンだと思うのはとんでもない失礼なことです。異分野の交流はまず相手の最大の得意技を出してもらうようなルールを作る必要があります。この点については栗山さんは、ファンダメンタリストと言ってよいほどの思想家で「弾けないような書き方をすればホロビッツでも弾けないんです」という言い方で、ぼくを完全に納得させてくれました。
さてさて、この共同作業の結末や如何に。
栗山さんとの共同作業は即ち、ガーシュインとグロッフェだったんですね。ガーシュインが作ったピアノ譜でグロッフェがオーケストラのアレンジをしたというような話を聞いていて、それが大きなヒントになっていたのは間違いないです。ここにも「ラプソディ・イン・ブルー」の影響があるんですね。すべては「ラプソディ・イン・ブルー」から始まっているのかと今さらながら驚いています。栗山さんに、ピアノ譜に書いてあるものを見てもらい、あるいはオーケストラのパートについてアイディアがあれば出来るだけ詳しく伝えました。
夢中になってやりたいことを全部たたき込んだんですが、出来てみると四楽章あった。普通、協奏曲というのは三楽章だったんだと気づいてももう遅いんですね。
やがて2000年の正月が近づいてきて、指揮の佐渡裕さんとスコアを見ながら打ち合わせをしました。佐渡さんとは何度か「ラプソディ」をやっていて気心が知れています。パリのサル・プレイエルという伝統ある会場でラムルー交響楽団と出会わせていただいたこともあります。ところがその佐渡さんが実は体調を崩されていた。リハの直前になって代役の登場という事態になりました。これが金聖響さんだったんですね。協奏曲第一番「エンカウンター 」はなんともドラマチックな誕生をする運命にあったようです。聖響さんと初対面で驚いたのは、お顔が私の息子にそっくりだったことで、リハ、本番を通じて時々凄い顔でこちらを睨みながら指揮をされましたが、なるほど息子に叱られながら仕事をするのはこういうものかと経験させていただきました。
その初演はおかげさまで大成功で、その後、この曲は同年4月に大阪国際音楽祭で京都市交響楽団を佐渡裕さんが指揮してリベンジをしてくださり、2002年には札幌交響楽団で小松一彦さん、同じ年に洗足学園大学オーケストラを秋山和慶さんが振ってくださって東南アジア・ツアー、さらに2004年には佐渡さんのご紹介と指揮でイタリア・トリノでRAI国立放送交響楽団で二日間演奏されました。この時は第一部ヤマシタで第二部はチャイコフスキーの五番だったので、思わずコンマスの譜面台に並んで乗っていた両方の楽譜を写真に撮ってきたほどです。そして、2005年には因縁の東京オペラシティで佐渡さんがNHK交響楽団を指揮してこの曲を演奏し、初演の急病リタイアのリベンジが完全に果たされたのでした。
ピアノ協奏曲第一番「エンカウンター」はその後、栗山和樹さん編曲の木管アンサンブルに、原朋直(tp)、川嶋哲郎(ts)というジャズ・ソリストを迎えて演奏され、さらにピアノ協奏曲第二番「ラプソディ・イン・F」もできました。これは指揮の茂木大輔さんが途中でソリストに変身して吹きまくるという場面があります。そんなこんなの経過の末、さらに来年は東京オペラシティ開館10周年ということで、第三番を作曲初演することになりました。今その制作のまっただ中で毎日がパニックの日々です。
思わず自作曲の話ばかりになりましたが、すべては「ラプソディ・イン・ブルー」から始まったことは前に述べました。その「ラプソディ」の準備は進んでいます。といいますか、実は今年は「ラプソディ」の当たり年で、6月以来、神奈川フィル・金聖響、瀬戸フィル・山田和樹、大阪シンフォニカー・大山平一郎(3回)とやって、この「せんくら」が今年の打ち止めなんですね。交響楽団との共演は音楽生活の中で最も嬉しく楽しいことの一つですが、やはりジャズ・コンサートの演奏とは違う緊張感があります。いやあ、実際大変なんですよ。でもこの「せんくら」の日は千秋楽なので、きっと身も心も解放された姿をお目にかけることが出来ると思います。是非ご一緒にその時間を楽しみましょう。またその翌日にはソロピアノを2回ご披露しますが、これはもう何の制約もない世界です。果たして何が発見できて自分がどこまで行けるのか、今からどきどきしています。
日本の音楽の歴史に素晴らしい伝統を作りつつある「せんくら」に参加できる幸せをあらためて噛みしめております。