私がすっかり“ホヤ”好きになったのは仙台で美味しいのを食べて以来です。
もちろん塩辛やくんせいも悪くはないけど、なんといっても刺身にはかなわない。それも天然物 でなくてはいけない。
私が住んでいる東京のはずれでは、天然物などまずお目にかかれないが、時々デパ地下などで出くわすこともある。
急ぎ帰宅してお尻のところをまずスパッと切り落とし、頭に向かって包丁を入れる。その後、身と皮の間に指を入れてみごとにひきはがす。
ホヤのどの部分がお尻で頭なのかは本当は知らないけれど、なんとなく見た感じだ。
ホヤは夏のもの。
せんくらに行く頃はもうナマコの季節になっているのかな?
宮城の辛口で一杯やりたいな。楽しみです。
今度せんくらで聴いていただくリュートは、撥弦楽器、つまり指などで弦をはじいて鳴らす楽器に属します。身近なところではギターやマンドリン、ウクレレなど、みなこの仲間に入るわけです。
楽器学的に言うと、撥弦楽器の仲間でも、瓜を真ん中から縦割りにしたような形の丸い胴体に表面板(響板)がつき、それに左手で弦を押さえるための棹(ネック)をつけた楽器をリュート属といいます。
これに対して胴がくびれて8の字型なのがギター属です。
ルネサンスやバロックの時代に演奏されたリュートはもちろんのこと、リュート属は今も民族楽器としてヨーロッパ、北アフリカ、アジアの各地で愛奏されています。エジプト、イラクなどアラブ諸国のアル・ウード、トルコのサズ、ギリシャのブズーキ、マンドリンなどもリュート属に含まれますね。
そして、そう、日本や中国の琵琶も忘れてはいけないのであります。
昨日の続き。
さてこのヨーロッパのリュートがもっとも流行した時代が今からざっと400年前。レオナルド・ダ・ヴィンチやシェイクスピアの時代。ガリレオ・ガリレイの父も弟も高名なリュート奏者であったのです。
当時イギリスでは、ジェントルマンたるもの、何はなくともまずはリュートをつま弾くことができるようでなくては貴婦人たちの心を動かすことはできなかったそうです。
時代が変われば状況も変わる。
今どきリュートをつま弾くぐらいでは貴婦人の心は動かない。
それどころか、だいたいまず貴婦人を見つけることすらむずかしい。
それにたとえば、私が誰か美しいご婦人宅の庭先から2階のバルコニーに向かってリュートを奏でてご覧なさい。警察に通報されるのが落ちです。
ま、私の場合、問題は容姿にあるかもしれませんが...。
先日、新聞広告で「新振り付けで踊る正調ナントカ節DVDセット」というのを発見! 新しい振り付けで踊るんじゃ正調じゃなくなっちゃうんじゃないかと考え込んでしまった。しかも親しみやすく宴会でも受けるように艶っぽい歌詞が新たにつけられているという。
音楽の世界でも歴史的とか正統的とかよく使われる。
私もリュートなんかを弾いている端くれとしては、別にこの言葉、それほど遠い世界の言葉ではありませんが、ときどき考え込んでしまいますな。
元祖ナントカラーメン、正調ナントカ節、本家ナントカまんじゅう、さらには総本家ナントカ餅とか。ここまでいろいろ出てくるとあまりありがたみがなくなってくる。それどころか、ちと胡散くさくもなりますな。
もちろんその中には本物の元祖をまじめに追求している方々もいらっしゃるわけだから迷惑な話だろうとお察しいたします。
コンサートのちらしに「リュートの総本家、正調、歴史的リュートの第一人者つのだたかしの真髄」などと書いてあったら、気をつけろ!(ないとは思うけど)
雑誌のインタビューなどで いつも必ず訊かれることがある。
リュートの魅力とは?
登山家に山の魅力は、とか なぜ山に登るのかなどという質問に似ているのかもしれない。
そして、空気が澄んでいるから、とか、達成感があるから、とかの答えになるのだろうか。
一言では言えない。
難しい質問だ。
でも最近はリュートの魅力は音が静かなことと答えるようにしている。
たしかに私は静かな音や音楽が好きだ。
リュートはちょうど人が静かに話し合うぐらいの音量で、
熱弁を振るう、がなり立てる、というようなイメージではない。
音楽の世界では、声量がある、楽器がより大きく鳴る、というところが
価値観の基準のひとつになっているふしがあるが、
そこから見ると私の価値基準は少しちがっているようだ。
ピアニッシモの声があえやかに消えていき、やがて完全な静寂がおとずれるまでの数秒間。
このかけがえのない最も美しいモメントを打ち破る 悪夢のようなブラボーの雄叫び!
嗚呼。
「おいそこのブラボーおやじ! いったいなんで他の善良な聴衆のみなさんと、この深い静寂を聴き届けようとしないんだ」
「他のすべての人たちがお前の無頼で見苦しい行為を憎んでいるというのに」
「おめえだけが金払ってるわけじゃネエだろうが!」
などとくやしまぎれのあられもない言葉をぐっと飲み込んでしまうのだ。
しかしなぜか、ブラボーをする人たちは、なぜかおやじなのだ。
しかも蝶ネクタイなんかしちゃって、いい加減もう分別もありそうなおやじなのだ。
いったいどういう美意識がそうさせてしまうのか、深く考えざるを得ない。
音楽はまだ終わっていないんだぞ!
それでは私自身がブラボーをしないかと言うと、するのである。
どんな時かというと、
音楽のメッセージがこちら側にボールのように放り投げられる時がある。
飛んできたボールはちゃんと投げ返さねば。
クラシックではあまりないが、他のジャンル、ジャズやロック、民族音楽、歌舞伎など、音楽的な要求で、演奏の途中であっても自然発生的に聴衆側の反応が生まれる場合がある。
イェーイ! オレー! 成駒屋!
花火がどーんとあがると 玉屋〜!なんてのもある。
これはクラシックの場合の
「この曲の終わりは私が一番よく知ってんだかんね」
という意味を含んだ知ったかぶり型のブラボーのありかたより
ずっと音楽的で健康的な気がする。