今年4月から小田急線「新百合ヶ丘」駅、徒歩4分の場所に大学まるごと引越した「昭和音楽大学」で講師をしている。
恥ずかしながら、そろそろ暦が還える年近くまで生きてきて、自分の生活の一部とはいえ、このような新居での生活に遭遇出来るとは思いもよらなかった。
人生の成行きで大学を2つ卒業してしまった。1つ目の大学は山陰の古都、松江にある島根大学。この大学を卒業した年、私の卒業を見計らったかのように(まさか!!)この世のものとも思えぬ景観を呈していた学生寮が取り壊され、立て直された。
それから4年後、2つ目の大学、東京芸術大学においても、もと「陸軍練兵場の宿舎」だった、殆ど臭うような香り高き学生寮が、またしても私の卒業と同時に立て直された。
時を経て、自分の住居を購入した時も、恥しながら中古住宅。事程左様に新築の建物に縁のなかった私が、新築なった校舎で学生達と一緒に勉強出来る喜びを満喫している。
大学も学生もそして自分も、何かを変えられるかな?!
その昔、東北、北陸、中国、四国、九州などの各地方に一大学、教育学部に特音課程と言うものが設けられた。私の卒業した1つ目の大学、島根大学は中国地方のそれだった。
恥ずかしながら1967年入学で、もう40年も前のことになる。
1学年の定員は30名で、だいたいどの学年も男子10名、女子20名という構成だった。学業成績の芳しくない生徒の集まる私立の男子校(女性は売店と事務のオバサンのみ)で嫌々ながらの3年間を過ごした我が身には、大学での生活そのものが革命的な変化だった。稚拙で訳の分からない練習を繰り返していたと思うが、結果を求められる事もなく楽器にぶらさがっているだけで、多少なりとも「自」を見出せる喜びを感じていた。そしてその上、多くの女性が同じ空間で同棲?する環境でそう出来ることは、恥ずかしながら振り返れば、これまで過ごし来た時間の中でもかなり「パラダイス」に近いものだったのかもしれない。
そんな学生生活の3年になる前の春休みだったと思う。その街に唯一ある「花のキャバレー」(その当時の文化施設?で、若かったり、若くなかったりする女性がアルコール飲料を持って待ちかまえ、クライアントを接待する大人の社交場)でピアノを弾く先輩から、一緒にそのキャバレーでバンドをやってくれないかとのお誘いを受けた。その先輩は一言で言えば、はなはだ潔く生きてこられた人で、今でも親交を結んで頂いている。
多少の躊躇はあったが、「ここで稼いで東京へ行ってコンバスのレッスンを受ける為」と割り切って、学生とバンドの二重生活が始まった。
そんなある日、声楽科の後輩が、どこかに捨ててあった自転車を自分で修理して、私に「どうですか?」と言ってきた。うかつにも購入してしまった。500円で!
2・3日後、花のキャバレーで仕事を終え、閉店まぎわの「おでん屋」でちょいと一杯、飲めないアルコールを飲み自転車のペダルを踏んで帰路につく。橋にさしかかった。どんな橋でもなだらかながら多少登り下りの坂になっている。登り始めて4回、5回と踏み込むペダルにかかる負荷が増してくる。何度目か息を止めて「えいっ」とばかりに右足を踏み込むと同時にポロッ、カラカラ?!ペダルが自転車から勢いよく地面へ。横転はまぬがれたが、坂を押して登り、そこから先は、恥ずかしながら、ネクタイを締めた小意気なバンドマンが左足1つペダルの自転車で夜の街へ消えていった。
当時の教育学部に科せられた教育実習の期間は、自分のいた課程だけがそうだったのか?6週間もあった。中学校2週間、高校2週間、また中学に戻って2週間、4年生になって早い時期にあった。
恥ずかしながら、夜の生活(花のキャバレーでのバンド生活)も続けていた。朝6時過ぎに起床、8時には学校に居なければならない。流石に体力、精神力とも限界を超え2、3日休んでしまった。それでもなんとか迎えた最終週、くじ運悪く「研究授業」なるものを引き当ててしまった。要するに他の実習生の晒し者になって授業をするのである。授業のあとの反省会で枝葉末節をとらえて、「そこがこうだ、ここがあゝだ」と言う他の実習生の戯言を聞かされた。「そんなくだらない事を気にしながら、君らは授業をしているのか?」と言う気持ちをぐっとこらえ、ご説ごもっともと言う顔で聞いていた。
実習生活の最後の方でクラス担任から頼まれ「道徳」の授業もやった。恥ずかしながら、「男女の敬愛について」である。
1時間滔々としゃべりまくった。曰く「君達の本分は学業にある。しかれども男子が女子を想い、女子が男子を想う心を育むことは劣らず大切な事である。夏の太陽に咲き誇るヒマワリのように、山の岩陰にひっそりと咲く名も知れない花のように。それぞれにその気持ちを大切にすべし・・・・・」
授業の後、所謂ラブレターが何通かクラスで飛びかったと聞いた。してやったり。
時を経て、卒業間近に大学の弦楽合奏定期でソロをさせて頂いた。音楽の授業のおかげか、道徳の授業のおかげか?受け持ったクラスの殆どの学生が半年以上の時間を越えて演奏会に来て呉れた。
研究授業であげ足を取った実習生の君達、「大切なことは、そんな所にはないんだよ!!」
春は野に舞う蝶と戯れ、夏は声楽科の学生達と競うような牛蛙の合唱に心和ませ、秋には宍道湖に沈む夕陽にもの想い、そして冬には深々と降り積る雪を窓ごしに眺めながら、ウラッハ(ウィーンのCla奏者)の奏でる「ブラームス」を心に刻み鬱々とした青春を感じていた。そのようにして田舎の大学で何の疑いもなく、何らかの結果を求められる事もなく生活していた。
恥ずかしながら、まるで4年間がそのまま額縁に収まりそうな、文字通り青春だった。
多くの仲間は特別教科(音楽)教員養成課程のその名のとおり、教員採用試験を受け、社会へと羽撃いて行った。私もそうなることに左程の違和感は感じていなかったが、「過ごしてきた4年間を自分なりに検証したい」とも思ったし、「もう少し楽器を弾いていたい」とも思った。その結果、国立の音楽大学、つまり芸大受験という事になった。2回目の大学受験だったので親にも言えず、すでにサラリーマンをしていた兄に無心し、自らも手持ちのオーディオ機器を後輩に買ってもらうなどして、受験資金を捻出した。
しかしお金の工面よりも、勉強などの受験準備の方が大変だった。4年間は、全てを忘れる為にあったので、現役受験生同様一から覚え直しである。その上卒業の為の単位も沢山落としていたので、それを拾い集めるのもまた大変。
演奏技術の面でも、ただひたすら何の基準も持たず自己満足的練習を繰り返していたので、「自分がどんなレベルに居るのか?」という不安も大きかった。
結果的に合格したが、第三次の最終発表を見たとき、周囲で飛び上がって喜ぶ現役の受験生のようには喜べない自分が居た。合格した喜びよりも、もうこの道から逃れられないという気持ちの方が大きかった。
もし受験に失敗していれば、1年間の就職浪人を経て、それなりに熱血先生になっていたと思う。
恥ずかしながら思う。
人が生きる時、取り敢えず頑張らなければと思うが、結果は多分に「はずみ」とか「成行き」に翻弄されるようにも!!
芸大4年の秋。ドイツ政府の給費留学制度の試験を受けた。恥ずかしながら、1ドル360円の時代である。すでに都響に入団していたが、月給8万円、親の支援を望めない貧乏学生には渡航費用30万円さえ、逆立ちしても出せない。留学試験が憧れの師ツェパリッツ先生に会える唯一の道だった。それだけに、その試験に合格出来たことは、この上ない喜びだった。
翌年6月、友人の見送りを受けて出発した空港は、恥ずかしながら「羽田」だった。もっと言うなら、途中アンカレッジで「うどん」を食べてのドイツ入りだった。(当時ヨーロッパへ行く時、東西冷戦下で北極を経由していた。)ハンブルク空港の芝生の緑が目に鮮やかだった。期待と不安が入り交じる、と言うよりも初めて見る外国の景色に、青年村上の小さな胸は押し潰されそうだった。取り敢えず行く街はハンブルク近郊のリュネブルクで、まずは空港からタクシーで駅へ。タクシーを降りて駅舎を見上げたら、なっ何と、日本で愛用していた「NIVEA(ニベア)」の超どでかいブルーの看板が目に入った。その看板を見たとたん、何故か気持ちが落ち着いてきた。「NIVEA」が効くのは肌荒れだけではなく精神安定剤としても有効だったのである。
リュネブルクの「ゲーテ学院」で言葉の勉強をさせてもらったが、色々な国から「志」を持った青年が集まり、片言のドイツ語で語り合いながらお互いに励まし、勇気づけ合うという貴重な体験から留学生活が始まった。
ベルリンでの留学生活は、月額750D.M(ドイツ・マルク)のドイツ政府からの奨学金のみで賄われていた。その額でオペラも聴けたし、ベルリンフィルの本拠地フィルハーモニー・ザールのポディウムと言う指揮者の正面の席のチケットも買えた。そして時々は先生にも、もぐり込ませて頂いた。
そんなベルリンでの生活で、冬の到来と共に必要不可欠なのが「コート」。ある日仲間とベルリンのスーパーマーケット(確かBilka ビルカ?と言ったと思う)へコートを買いに行った。
時代と国は違うが、1階食品、2階が衣類売場のヨークマート?もしくは西友?と言った感じである。2階の角の方に、ずらりと並んだコート、多くはイミテーション皮の150〜200D.Mの物だった。しかし、人目を憚るように外れの方に暖かそうなラム(子羊)の内側に起毛した、その上柄が灰色と白のまだら模様、一目でものほん(本物)と分るコートが上等そうなハンガーに鍵つきで掛かっていた。値段は750D.M。1ヶ月分の奨学金と同額!!仲間と一緒に、ひやかし気分で店員に鍵を開けて呉れるように頼むと、「買いもしないのに、東洋の貧乏学生が!」と、口では言わなかったが、顔に書いてあった。店員が渋々鍵をはずしたコートに手を通すと、恥ずかしながら、初めて感じる感触。「暖ったか、温ったか、こんなコート有ったか?」さげすんだ顔を見返してやりたくもあったが、殆どはずみ(・・・)で「お買上げ」してしまった。
店を出て、買ったコートの暖かさ以上に、寒くなった懐具合に身震いした記憶は、今も残っている。
灰色と白のまだら模様がかもしだす雰囲気から、そのコートはそれからしばらく「象アザラシ」の異名を欲しいまゝにした。
芸大在学中に当時ドイツから、いらっしゃった指揮科の客員教授の先生と親しくなった。在学中に東京交響楽団へ入団し、学生と仕事の2足のワラジを履いていて、大学の授業(オケ)に30だけ出て、すぐ仕事としてのオケへ行くというのがしばしばあった。その先生との「絆」のおかげで30分で「出席」を頂いていた。
しかし、それだけの為に懇意にして頂いたのではなく、その先生のお人柄も素晴らしかったし、奥様も、とても優しく、おおらかな方で、ドイツ語を教えて頂いた。
ドイツでの留学を終えて日本に帰り、恥ずかしながら結婚する仕儀に至り、親しくして頂いたその先生に、「お仲人」をお願いした。
「今まで披露宴には何回か出席したが、式には臨んだことがないのでとてもインテレサント(興味がある)だ。」と引き受けてくださった。
その当日、神前に畏まり神主の祝詞が始まった。そのドイツ人の先生は、エルビン・ボルン、奥様はエリザベス・ボルンというお名前だった。
残念ながら、その神主さんの頭には「ボルン」という語彙はなかった。
「高天が原」に始まる祝詞は読み進まれ、新郎、新婦の名前に続き仲人の名前が静まりかえった式場に響き渡った。「エルビン・ボイル、エリザベス・ボイル」
居並ぶ両家の親戚は、今日初めて会った外国人の名前に気付くはずもない。
ただ、新郎、新婦の頭の中のみ、「ボイル」の言葉と同時に「ゆで卵」が浮かび上がってしまった。本来そうあってはならない場所であっただけに、必至の思いで笑いをこらえていた。
言うまでもなく、ボルン先生ご夫婦は神妙に畏まったままだった。
何等、音楽と関係のない話の数々で大変失礼いたしました。そんな村上が恥ずかしながらコントラバスという朴訥な楽器で皆さんにお話させて頂きたいと思います。
10月6日、太白区文化センター展示ホールでお待ちしています。